日本バプテスト 福岡城西キリスト教会

福岡市城南区別府5丁目10-28(中村学園大学の裏手になります)
教会のご案内 信仰の告白等 牧師室 アクセス・交通

教会員の声-信じる者の思い No.1

城西教会に来られている方に、日常生活の中で感じておられることや、ご自身の信仰についての思いを寄稿していただいています。 ご質問やご意見がありましたら、牧師までお知らせください。
2013年6月

※梅崎良則牧師は2018年3月末に引退されました。

「振り返ってみると」-明日、今日、昨日-

城西教会牧師 梅崎良則
2013年7月24日、 西南学院大学チャペル 講話

 おはようございます。実はわたしはこの大学の経済学部と神学部の卒業生です。今日は後輩の皆さまの前でお話できる機会をいただき、 いささか緊張はしていますが、・・・しかし大変光栄に思っています。・・・・大学の方から「振り返りのとき」、というテーマをいただいていまので、 このテーマに沿ってお話をさせていただきます。
今日のお話が、「数mm」でも皆さま方の人生に役立つなら、それは大変うれしい事です。

はじめに、振り返ってみると、栗田工業

 振り返ってみると、今から43年前の7月初め、わたしは今、皆さんが言われる「就活」の真っただ中にありました。 ・・わたしは現役の時は、硬式テニス部に入っていました。丁度、6月中旬、九州インカレに備え、「ピオネ荘」という海の家で合宿していました。 すると、「梅崎、電話」だという呼び出しがあり、電話口に出ると、父親からでした。日頃、快活な父の声に元気がありません。 「良則、電報が来たぞ。それを読むぞ!」、というのです。それは就職試験の結果を知らせる電報だったのです。 父は、「シュショク ナイ テイスウ、・・・お前は落ちたぞ!」、と言ったのです。わたしは「父ちゃん違う、それはこう読まないかん! 「シュショク ナイテイス」。
 のどかな時代だった今から43年前、・・わたしは、当時、粉飾決算し再建途上にあった栗田工業、という会社に就職しました。 以来、そこで33年間に亘るサラリーマン人生を終えました。振り返るに、「いい、サラリーマン人生だった」、と思っています。 それなりに自分の力を発揮できて、しかも子ども3人、育て上げることができた、というただそういう理由からです。
 今、学生諸君にとっての最大の関心事は「就活」、だと聞いています。そして「就職がなかなか決まらない」、という話も聞きます。 ベストを尽くし、もしダメであっても、決して自分自身を「ダメだと」決めつけないでほしい、と願っています。今日は昔のようにのどかな時代ではありません。 ですからすべてを自分の責任にしないでください。それと、今でこそわたしが働いた栗田工業は水処理大手として1流と言われますが、 当時は2流の会社でした。ですから待遇がどうだとか、知名度があるとか、そういう体面にこだわらず、将来性のある中小の会社を選ぶことも 就活の大事な選択肢ではないでしょうか。

振り返ってみると牧師、すべては神の計画。

 ところで、わたしは現在、この西南学院と関係の深い、福岡城西キリスト教会の牧師になっています。私の学生時代もこのような全学チャペルはあったと思います。 しかし、わたしはチャペルなどには一度も出た記憶がありません。宗教を「弱い人間のすることだ」、と馬鹿にしていたからです。 そうした人間が今このチャペルで語るなど、世の中の常識でいえば、「資格はない」のです。そういう人間が語らせていただくのは、ただただ神の憐れみによってです。
・・・振り返ってみると、「チャペルにも出たことが一遍もない人間がどうして、今牧師なのか?」、  それは今から27年前の出来事に遡ります。当時、わたしは38歳の働き盛りでした。実は1986年の春先ですが、妻に肺がんが見つかったのです。見つかった時は既に末期のがんで、必死の治療の甲斐も無く、その年の秋、妻は36歳の若さで亡くなりました。・・・・・・それまで「頑張れば、人生なんとでもなる」、と思っていた私の生き方が、全く通用しないということを経験しました。わたしの頑張りなど、妻の命を生かすことに何の役にも立たない!・・・・刻々と悪くなっていく状況に耐れきれず、私のストレスは最高潮になりました。「九州男児で強い」、と思っていた自分がこんなに弱いのか、ということを痛感させられました。・・・その時、わたしはあんなに馬鹿にしていたキリスト教に縋りました。その後、洗礼(バプテスマ)を受け、・・毎日曜日テニスをしていた人間が、今度は毎日曜日、教会にいく人間になったのです。そればかりかこのように、「キリストを救い主と伝える」牧師にまでなったのです。これは全く想定外の人生です。  そしてサラリーマンからその牧師への転身もひょんなことからです。久しぶりに再会した、わたしにバプテスマ(洗礼)を与えてくれたアメリカ人宣教師から、 「いつ、西南に来ますか」、と言われたその一言からでした。後で彼に聞いたところ「それは軽い冗談のつもりだった」、ということでした。 定年を前に、サラリーマン人生に少し行き詰まりを感じていたわたしは、その言葉を、「新しい人生を歩まないか」、という神様の招きだ、そう受け取りました。 そして2004年、4月、西南学院神学部に06期生として再度入学し、そこで牧師になる道を歩んだのです。
・・・・ここから言えること、月並みですが、・・・
◆苦難に出会い、苦難そのものが私に人生を深く教えてくれたこと。
◆人生は、順番通りには、あるいは思い描くようには進まないということ!
◆人生はひょんな出会いから、思ってもみない道に進むことがあるということ。
 ・・・そしてこれらを牧師の言葉として言い換えるなら、すべての事は、・・・神の計画であったということです。

明日をイメージし、今を生きる!

 振り返ってみると、実は昨日、・・「7月24日」という日は、わたしにとって特別な「日」なのです。それは、今から6年前、たった一人の息子が はるか遠い天の国に旅立った日であるからです。彼の胃にスキルス性のがん見つかり、必死の治療のかいもなく彼は亡くなりました。
・・・人生の悲劇には「○○しようとしていた矢先」、というのは大変多いそうです。彼も例外ではありませんでした。彼はSNSの大手だったミィクシーに入社し、  人事部長にもなっていました。人事部長として人材を確保し、ベンチャ―企業であるミィクシーを組織化したい、と燃えていました。 しかし、その「これから」という矢先に病魔に倒れたのです。彼の生涯は30歳と7カ月でした。彼の生涯を見るに、沢山の友人に恵まれたこと、 よき仕事に恵まれたこと、そして病気との闘い、・・・一言でいうなら、「その全に精一杯、生きてくれた」、というのが実感です。 私はそのことについて、いつまでも息子自慢をしたいと思っています。
 私は妻を亡くし、息子を亡くしたことから、人生は、昨日、今日、明日、と順番通りあるのではない、ということを痛感させられるようになりました。  子どもを失うことは「将来」を失うと言われますが、わたしにとって息子の結婚式で親としてスピーチすることも、孫を抱くことももうありません。  わたしにとって息子の明日はもうないのです。
 しかし、私はわたしに与えられた将来を、・・私の過去によって縛られたくはありません。たとえ過去がどんなに悲しく、辛いものであったにしても、 その過去に明日を支配させたくありません。それは先にいった私の愛する者もそう望んでいるからと思うからです。 そして付け加えるなら実は、明日を決めているのは過去ではなく、自分の中にある明日のイメージです。
・・・過去が暗かった、だからこのまま明日も暗い、とイメージするなら明日は暗くなります。逆に過去の暗いイメージに縛られず、明日は明るい、 とそうイメージするなら明日は必ず明るくなります。だから明日は今、・・・ここにあるのです。
 わたしは将来、・・・これはキリスト教の信仰によるのですが、先に天に召された私の愛する者達とも天国で再会できると信じています。 これはわたしのゆるぎない、いわば遠い明日のイメージです。再会したその時、「あなたたちに負けないくらい、ちゃんと生きてきたよ」、 とそう堂々と言える自分でいたいのです。私にそう言わせる意味において、愛するものは今も私の中で生きているのです。 ・・・・またそうなるように、「明日につながる今を、・・・・精一杯生きよう」、とそう思わされているのです。
ご清聴ありがとうございました。