日本バプテスト 福岡城西キリスト教会

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2016年5月29日(日)宗像キリスト教会での礼拝説教

醜いあなたが尊い…気付かされた神の愛 

宗像キリスト教会での礼拝説教
 
聖書箇所:新約聖書マタイによる福音書9:1-8

3:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
すると、彼は起きて家に帰った。
群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。


 まず私の自己紹介。現在西南学院中学校の宗教主任をしています。
■中高生の苦しみ〜親への自己主張
 西南中学に就職したのが1978年。それから38年間、教員をしていて感じることがあります。
それは生徒の背後に神がいることです。
 中高時代は悩み多き時代です。親の言うとおりにはならない自分の価値観が育ってきます。だから自分の主張をぶつけ始めます。いわゆる反抗期です。
 しかし「反抗」しているわけではありません。自分は親と違う。それを自覚する行為であり、主張なのです。もちろんそれを直接親に表さない子どももいます。直接表さなければ心配ということでもありません。
■中高生の苦しみ〜同年代の軋轢
 また、同じ年齢同志の人間関係に苦しみます。ほとんどの生徒の悩みはこれではないでしょうか。そのために悩み苦しみますし、またその軋轢がいじめに発展する場合も少なくありません。さらに親子の関係と友だち関係のストレスにバランスを崩し、不登校になる場合も出てきます。西南って、進学校として見られていて、合格するのは並大抵ではありません。成績優秀な生徒がほとんどです。しかしそれでも、いじめや不登校、拒食症などが出現します。そしてそれはその子たちにとっては必要な過程なのです。もちろんその苦しみがなければいいに越したことはありません。しかし、その過程が必要な子どもがいます。それらの子どもにとってこの時期にその苦しみを抑圧し、何事もなく過ごしたとしたら、今度は大人になってもっと深刻な形で出現する可能性があります。
■不登校の理由を探しても
 最初、担任している生徒の不登校を私が経験したときに、なぜその子が不登校になったのか、その原因が思い当たりませんでした。保護者も悩む。その悩みに担任として「これこれこういう理由でこの子は不登校になったのでは」とヒントを出すことができませんでした。「理由は私にも分かりません。」と言うしかなかった。
 今だったら理由を探そうとはしないでしょう。その子にとって小さい頃からの何らかの抑圧が限界に達したと理解します。今、不登校という形でその抑圧をいくらかでも開放するしかない。その過程がこの子どもには必要なのです。だから不登校を解決することは目的にならない。その子の抑圧を開放することが第一なのです。
■成り代われない
 不登校の理由を探そうとしていたその当時の私にも、しかし感じたことがあります。それはこの子どもは何者かによって支えられている。もちろん親は精一杯心配します。この子のためになることは何だろうと探します。支えようとします。もちろんそうです。
 でも、どんなに心配しても、その子に成り代わることはできない。とどのつまり乗りこえるのは本人です。担任がいくらがんばっても、心配することしかできない。乗りこえる一歩は、本人にしかできないのです。
 そしてくどいようですが、現実に直接支えるのが難しい状況で、なおかつ私は何者かが基本的にこの生徒を支えているのを感じた。何者かがこの子を愛で包んでいるのを感じました。
■何者かの支え
 学校というところは成績がものを言うところです。また、毎日休まず元気に登校する生徒を主たる対象とします。それは学校の限界です。西南は不登校になっても心配し続ける学校ではあるのですが。
 ところが私の感じる愛は、学校に来ていようが、不登校になっていようが、いじめられていようが、逆にいじめていようが、どういう状況にあっても、同じように注がれているのですね。
 私は西南中学で教員として働いている中で、神の愛に出会ったのです。
 このどういう状態でもふりそそぐ神の愛は、すなわち私にも、しかもどういう状況においても降りそそがれるって。
■イエスが最初にしたことは
 聖書に戻ります。これはイエスの元に友だちが中風の患者を床に乗せて連れてきます。そしてイエスが「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われて、中風の患者が起きて家に帰ったという癒やしの記事です。いや癒やしの記事だと私は読んでいました。ところが、それは私の浅い読みで、この聖書を誤解していました。
 中風をネットで調べると、(ちゅうふう)と普通は読み、脳血管障害の後遺症である半身不随、言語障害、手足のしびれなどと書いてあります。この人はおそらく半身不随なので、自分で歩くことができませんでした。で、まぁ歩くことができなければ歩くことができるようになりたいわけです。特に古代社会では半身不随のものは社会に役に立たない者として扱われます。
 今は少しはマシになったように見えますが、基本、能力社会は変わりません。成績中心の学校も基本、能力社会です。能力社会において半身不随であることは、避けるべきことであり、もし救い主がいるとするなら、それを治すことができるかどうかが力の示し処でしょう。
 ところが、この聖書をよく読んでみると、イエスは初めに「罪が赦された」と言っているので、「歩きなさい」とは言ってないのですね。イエスとこの患者との関係での核心は「あなたの罪は赦された」であって歩けるかどうかは、その人の核心ではない。そうではなく、人の迷惑をかけてしか生きていけないその人が、「それでいいんだよ。何も心配することはいらない。迷惑をかけ合いながらみんなとともに生きなさい」と実質言われているのです。
 さらに、ではなぜ「歩きなさい」と言われたのか。それはなんと律法学者たちに気付かせるためだった。律法学者はイエスを貶めることしか考えていない。その連中に対して、立ち返らせようとした言葉であり、行為だったのです。もしイエスを貶める勢力を「悪」として切り捨てるなら、イエスのこの言葉も行為もなかった。律法学者たちでさえ、「悪」としてではなく、「赦されるべき罪人」としてイエスは対応されたのです。
 「歩けるか歩けないか」でしか判断しようとしない周囲の人間たちの中で、それとはまったく違う、この人の存在、この人の罪が赦されること、それが行われるのが神の世界でした。
 さらにそれを徹底して否定し、キリストまでも否定する勢力に対して、その張本人をも同じように「立ち返りなさい」と手招きする。それが「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」とのイエスの言葉だったのです。
■迷惑をかけなければ生きていけない
 ここに一冊の本があります。タイトルは『いい子に育てると犯罪者になります』。ショッキングな題名ですが、中を読んでいくとその理由がわかります。著者、岡本茂樹さんは殺人など重大な犯罪を置かした受刑者のカウンセラーです。そのカウンセリングをしながら、実は重大犯罪を犯した人たちの多くは子どものころ「いい子」を演じてきた、あるいは厳しい親の下、「いい子」を演じさせられてきた人が多いことが分かって来たそうです。
 やがてその抑圧が爆発します。爆発する前に、「嫌だ」と言って親に甘えたりとか、そんなことができれば爆発する前に抑圧を解放することができます。しかし厳しい親の下それができなかったら、いずれ爆発して被害者を作るのです。
 この本の中でハッとさせられた文章があります。以下、そのまま読みます。
引用(ここから)
 私たちは人に「迷惑をかけてはいけない」と思い込んでいないでしょうか。なぜなら、多くの人が親からこの言葉をかけられているからです。「人様に迷惑をかけてはいけない」と。「迷惑をかけてはいけない」という価値観は、見方を変えれば、「人の世話になることをしない」という考え方につながります。そうすると、悩みや苦しみを自分一人で抱え込むことになります。
 実際のところ、日々の生活で私たちは人に「小さな迷惑をかけながら生きている」のです。誰にも迷惑をかけないで生きることは不可能です。むしろ「小さな迷惑」は人が誰かとつながるためには必要なのです。
 …(中略)…
 そもそも親とは、子どもから心配をかけられたり迷惑をかけられたりする存在です。むしろ心配をかけられたり迷惑をかけられたりすることを、親は喜んでもいいのではないでしょうか。なぜなら、子どもは自分の本当の気持ちを表現しているからです。この少年が再出発するためには、人にうまく甘えたり頼ったりする生き方を身に付けることです。「絶対迷惑をかけない」という言葉が出たときは、「その気持ちで頑張れよ」と励ますのではなく、支援者は「上手に人に迷惑をかけて生きていくんだよ」とつたえなければなりません。
引用(ここまで)
 これこそ罪人として生きることに他ならないのではないでしょうか。私たちが罪人であるとは、人に迷惑をかけ、神に迷惑をかけ続けながらしか生きていけないことではないでしょうか。
 そして、イエスがまず第一になさろうとしたことは、立ち直って社会に役に立つ人間として再出発することではなく、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と中風の人に宣言することでした。
そうなのです。私たちは自分が迷惑をかけ続ける存在であることを認めることから始まります。そしてそれが赦されたことを知るから、相手の罪、そして相手からの迷惑を受け入れられるのです。
 神は私たちを限りなく愛してくださいます。それは私たちが正しい信仰をもっているからではなく、またクリスチャンとして人の役に立つからでもなく、もちろん模範となれるからでもありません。
 自己中で、醜い自分に愕然とするようなどんな状態でも、私たちが生きている。それだけで神は喜ばれるのです。私たちが悪意を心の中に秘めている。とっくに神はそれをご存知で、なおかつ、そのままの私を赦しイエスの命を代わりに差し出すほどに愛されている。それを知りなさい。それが最大の聖書のメッセージではないのでしょうか。
 西南中学で生徒に出会う中で私はこのようなことを教えられています。