日本バプテスト 福岡城西キリスト教会

福岡市城南区別府5丁目10-28(中村学園大学の裏手になります)
教会のご案内 信仰の告白等 牧師室 アクセス・交通
 1.2014.10.19 福岡城西キリスト教会の信仰告白(新)
 2.1979.8.9日本バプテスト連盟信仰宣言
 3.1988.8.26 戦争責任に関する信仰宣言
 4.2002.11.15 平和宣言
 5.2011.11.11 原発問題に関する声明
 6.2013.11.15 憲法問題に関する声明
 7.2015.11.13 「戦後」70 年に関する信仰的声明

福岡城西キリスト教会の信仰告白

2014年10月19日

前文
 私たち日本バプテスト福岡城西キリスト教会は教会組織40周年に当たり、国内における「東日本大震災・福島原発事故」に象徴される状況やその後の平和を脅(おびや)かす状況、世界各地の紛争や抑圧された民族の苦悩(くのう)などを覚えつつ、ここに信仰告白をいたします。
第1条 聖書
 私たちは聖書が信仰の唯一の権威ある規範であると信じます。聖書はそのメッセージが聖霊の導きによって書かれたものであり、イエス・キリストとして現れた神の救いを旧約聖書では待望しつつ、新約聖書では想起しつつ証しし、現在の私たちの信仰生活を神の国の将来へと導きます。

第2条 真(まこと)の神
 私たちはイエス・キリストにおいて示された神、真(まこと)の唯一の神を信じます。神は父・子・聖霊なる三位一体の神として生きて働いておられ、また何ものにも依(よ)らず自由な存在であり、同時に愛に満ちあふれておられます。

第3条 父
私たちはイエス・キリストがアッバ・父と呼ばれた神を、その近さの故(ゆえ)に私たちの父なる神と信じます。また、神は上なる神、全知全能にして不変なる神、全被造物の創造者、歴史を導く主であります。

第4条 子
 私たちはイエス・キリスト、神の独(ひと)り子、救い主、我らの主を信じます。主イエスは「最も小さい者」(マタイによる福音書第25章40,45節)として地上の歴史を生きたインマヌエル(神我らと共に)の神であり、その生涯の言葉と行いとを通して、また十字架と復活によって、私たちを赦し、解放、永遠の命へと招いておられます。この福音は全ての生ける者のみでなく、死せる者にも告げられています。

第5条 聖霊
 私たちは内なる神、聖霊を信じます。聖霊は生きて働き、私たちに信仰を与(あた)え、罪を悔(く)い改めさせ、新しく生まれさせ、隣人と結びつけ、教会形成へと導きます。また、弱い私たちの苦しみや全被造物のうめきを、父なる神に執(と)りなしてくださいます。

第6条 人間の罪と神との和解
 私たちはイエス・キリストによって神と和解させていただいたことを信じます。私たち人間は神と向き合う者として創造されましたが、罪を犯して神に死に、その結果、隣人や被造物との関係、さらに自分自身との関係を壊(こわ)しました。私たちの罪にもかかわらず、愛の神はイエス・キリストの十字架と復活において、私たちの罪を神ご自身のものとされ、神ご自身の命を私たちに与え、私たち罪人を神ご自身と和解させてくださいました。私たちはキリストにおける和解を受け、罪に死に、恵みに生きる新生者となり、隣人や被造物また自分自身との和解を生きる者となります。

第7条 教会
 私たちは新生者の群れなる教会をキリストの体と信じます。私たちはこの世にあって、礼拝、伝道、教育を教会の使命として担います。主にある交わりの生活をなしつつ、この使命達成のために喜んで奉仕し、責任を分かち合います。それによって、主イエスに従い、成長する者となります。また、私たちの教会は自主・自立を原則としながらも、福音伝道のために他の教会に学び、協力・連帯し合います。

第8条 礼典
 私たちはバプテスマと主の晩餐(ばんさん)を、教会の礼典として、聖霊の注(そそ)ぎの下で守ります。バプテスマは、信仰を告白する者が罪に死に主イエスに生きる、新生の象徴であり、浸礼(しんれい)の形式をとります。主の晩餐では私たちは、兄弟姉妹と共に主を愛し従う者として、主の体と血を象徴するパンとぶどう酒にあずかり、十字架と復活を心に刻(きざ)み、主の到来を待ち望みます。

第9条 主の日
 私たちは、週の初めの日、キリストが復活された主の日に、霊とまことをもって礼拝をささげます。礼拝においては神を賛美し、祈り、み言葉に聴(き)き、罪を悔い改め、感謝を表します。また、主の日の礼拝から始まる日々を、十字架と復活の証人として歩みます。隣人と共に祝福と労苦を分かち合い、隣人に福音を証(あか)しし、感謝と希望に溢(あふ)れる生活を祈り求めます。

第10条 教会と「国家」
 私たちはイエス・キリストが教会の主であり、良心の主であるとともに、全ての権威・権力の主であると信じます。国家はキリストの支配のもとにあって、正義を行い、平和を実現するために、神の委託を受けている人間の組織です。私たちは良心に反しないかぎり、これに従います。また、国家が暴力によらず諸国、諸民族の間に平和を追い求め、信教の自由・政教分離を遵守(じゅんしゅ)し、神の委託に反しないように見守ります。

第11条 終末の希望
 私たちはイエス・キリストが再び来られるのを信じます。この時、歴史は目標に到達し、この世の不信は終末の主によって審かれ、信じるものたちには新しい体が与えられ、神の国が実現されます。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆(なげ)きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録第21章3~4節)。それ故、イエス・キリストは私たちの希望です。

マラナ・タ、主イエスよ、来りませ。 アーメン                            


日本バプテスト連盟信仰宣言

1979年8 月9 日

日本バプテスト連盟は福音宣教のため、加盟教会が相互に連絡し、協力する機関である。
加盟教会は独自に信仰告白を持つ自主独立の各個教会であるが、私たちはこの信仰宣言において、日本バプテスト連盟を構成する諸教会共通の信仰を今日再確認し、協力と交わりの根拠を表明する。

 私たちの信仰宣言の中心はイエス・キリストであり、その基盤は聖書である。私たちは聖書が聖霊の導きによって書かれた、信仰の唯一の規範であると信じ、これに基づき次のように宣言する。

 イエス・キリストにおいてご自身を啓示された神こそ、父・子、聖霊として働かれる、唯一の、全知全能の神である。神は愛と自由において天地を創造し、これを支配したもう。

 イエス・キリストは神の子として、みむねに従って、人となり、すべての人間の罪の救いのために十字架につけられ、三日目に死より復活し、それによって罪と死を克服し、全世界の主となられた。

 聖霊はイエス・キリストのすべてのわざを私たちの内に直接証しし、信仰の実を結ばせ、私たちを神の栄光へと導きたもう。

 私たち人間は神の像に似せて造られたが、罪に堕ち、神に背くものとなった。それにもかかわらず、私たちは神の恵みのもとにおかれ、イエス・キリストにおいて神の救いに招かれているものである。

 信仰はイエス・キリストを信じ受入れ、罪を悔い改め、全身全霊をもってキリストに従うことである。この信仰によってのみ、私たちは神に義とされ、新生にあずかることができる。

 キリストのからだなる教会は、聖霊によって信仰と愛の交わりへと呼び出され、この世の救いのためにたてられた新生者の集りである。
すべての信徒はひとしく福音宣教にたずさわる。教会政治は会衆主義による。

 各個教会は相互に支配・従属の関係に立たず自主独立であるが、同時に他の教会との協力を喜ぶ。

 教会の礼典として私たちはバプテスマと主の晩餐を守る。
バプテスマはイエス・キリストを主と信じ告白するものにのみ授けられ、罪の身が十字架に死に、復活において新しい生命にあずかることを象徴する。それ故に、私たちは幼児洗礼を否定し、バプテスマのかたちとして浸礼を守る。

 主の晩餐はイエス・キリストの贖罪の死を記念するものである。これにおいて私たちは終末における主の到来を待ち望みつつ交わりを固くし、宣教へとつかわされる。

 私たちは週のはじめの日を主の日として守り、主の復活を記念し、主の約束 を待ち望む。
私たちの生活は、この主の日の礼拝から出発し、神の救いを喜び、キリストを証ししつつ隣人と祝福をわかち、労苦を共にする。

 国家も神の支配のもとにある。国家は救いに招かれているすべての人間の尊厳を守るべきであるが、決して良心の主となることはできない。
 良心の主は神のみである。私たちは信仰による良心の自由及び政教分離の原則を主張する。 教会は国家に対して常に目をそそぎ、このために祈り、神のみむねに反しないかぎりこれに従う。

 主イエス・キリストはすべてのものを新たにするために、再び来りたもう。終末の主によって信じるものは新しい霊のからだを与えられ、救いの完成にあずかり、この世の不信はさばかれる。

 それ故に主イエス・キリストは私たちの希望であり、日々の信仰のわざを失望に終わらせたもうことはない。
(1979年8 月9 日)



戦争責任に関する信仰宣言

1988年8月26日 日本バプテスト連盟 第42回年次総会

 私たちは昨年の第41回年次総会において、「日本バプテスト連盟結成40周年にあたっての声明」を採択し、連盟40年の歩みについて深い感謝と悔い改めを表明した。
 天皇の代替りなどをきっかけとして、新しい装いをこらした天皇制国家が台頭するきざしが日増しに強くなっている今、私たちは、バプテスト宣教100年周年の記念すべき時を迎えようとしている。
 この時にあたり、神が私たちの先達を通して与えてくださった数々の恵み、祝福を感謝し、新たな希望をもって宣教200年に向かって前進していくために、神と人々に対して私たちは以下のように戦争責任を告白するものである。

 私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活において私たちの罪を審きつつ赦す解放の福音にのみ聴き従う。
 主イエス・キリストこそ教会と世界の主であり、私たちはみ子イエスから父なる神の支配を語り、この世界を神の被造世界として受け取ることが許されており、またそうするように命じられている。
 しかし、かつての大戦下、私たちは、まさにこの主告白において誤りを犯した。
 すなわち私たちはこの世界に主イエスの支配の及ばない領域を認め、「神社は宗教にあらず」と強弁しながら天皇を「現人神(あらひとがみ)」とする天皇制国家とその侵略戦争を教会と両立できるものとし、しかも戦争遂行に加担して隣国の人々に対し、神社参拝を強要するような誤りさえ犯した。
 このような状況の中で私たちは、二元論的あるいは道徳主義的福音理解にとどまることによって、信仰の内面化と体制的教会の保持を図ろうとした。
 そして私たちは、生の全領域に及ぶイエス・キリストの義の支配を十分に語らず、「隣人の家をむさぼってはならない。」(出エジプト20・17)という戒めを聴くことも語ることもしなかった。
 私たちは、この大戦がまさに明治以来の富国強兵政策の「力」の絶対化と「むさぼり」の行きつく結果であったことをわきまえようとせず、「八紘一宇」のスローガンが偏狭な民族エゴイズムに過ぎず、天皇制が「むさぼり」とそれを生み出す差別とを正当化することを見抜けなかった。
 そして、信教の自由・政教分離を主張すべきバプテストでありながら、かえって国家を神の国と同一視し、アジア侵略を神が祝福される領土拡張として単純に受け入れた。
 そして私たちは、「むさぼり」が今日においてもアジア諸国の民衆を抑圧するばかりか自らの生をも歪めていることを知りながら、未だ福音に応答する「平和を造り出す者」の生き方を実現できないでいる。
 私たちは深い痛みをもって自らの罪を告白する。
 また、私たちは、天皇制国家が持っている問題性について十分に問うことをせず、その体質を引き継ぐことによって、主告白をあいまいにしていることを自らの罪として告白する。
 どうか恵みの神が私たちの罪を赦してくださるように。
 また、天皇の代替わりにおいて、新しい天皇制国家が装われつつある状況の中で、主イエス・キリストのみが教会と世界の主であるという教会本来の告白に立ち、ふたたびそのあやまちをくりかえすことがないように。
 そして、そのことが、私たちの喜びと希望となり私たちの告白の課題であり続けるように。
 1988年8月26日 日本バプテスト連盟 第42回年次総会




平和に関する信仰的宣言【平和宣言】

2002年11月15日 日本バプテスト連盟第49回定期総会

前 文
 「平和をつくりだす人たちは、さいわいである」と主イエスは言われる。しかし今、世界は敵意に満ちている。殺戮と報復が果てしなく繰り返され、絶望が支配しようとしている。
 十字架の主イエスはこの世界において審きと和解を為し、解放と平和を告げ知らせ、私たちを復活のいのちへと導かれる。
 私たちは静まって沈黙し、主イエスの声に聴く。教会は救われた者の群れとして応答に生きる。

 神は奴隷の地エジプトから人々を解放し、十戒を与え、救いの出来事に応答して生きることを命じた。
 主イエスは十字架と復活を通してこの律法を成就された。それゆえ私たちは十戒を死文と化してはならない。教会は十戒を生きる。
 この世界の中で主のことばに従って平和を創り出していくために、日本バプテスト連盟に加盟する私たちは主の恵みに与りつつ、主の戒めに生きることを宣言する。

1、私たちは主イエスに従う
 十字架の恵みを受けた私たちは主イエスに従う。信じる者は服従へと召され、主イエス以外のすべての束縛から解放される。主イエスへの服従こそが、私たちを自由にする。
第一戒 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
 私たちは主イエスの御顔をのみ仰ぎ見る。私たちは御声をのみ聴く。私たちは自らを誇ることをせず、十字架の主イエスを誇る。私たちは御心のままにと祈る。私たちは主イエス以外を知らない心貧しき者として生きる。私たちはこの生に平和を見出す。

2、私たちは主イエスのほか何ものにも服従しない
 主イエスへの服従はそのほか一切のものに対する服従の拒否である。不服従を伴わない服従はあり得ない。主に服従する私たちは自分自身にとって最も大切なものさえも断念する。
第二戒 あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。
 国家、民族、イデオロギー、経済、富、宗教的政治的権威、自由と正義、道徳、良心、感情、感覚、生命、自分自身、そして愛する者たち。これら一切は、服従の対象ではない。私たちはこれらを神に仕立て上げ、これらにひれ伏し仕えることをしない。
第三戒 あなたはあなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
 教会は神の御心を騙(かた)ってはならない。教会が神の名を利用して、暴力や報復、正義の戦いを肯定することは許されない。
第四戒 安息日を覚えてこれを聖とせよ。
 礼拝をこの世と区別しないとき、服従してはならないものへの服従が始まる。礼拝は主イエスへの服従行為であり、この世に対する断念である。私たちは礼拝を第一とする。

3、主イエスに従う私たちは殺さない
 主イエスによって解放され生かされた私たちは、もはや殺すことができない。もし殺すなら、私たちは服従してはならないものに服従するのであり、主の恵みを否定するのである。
 主によって解放され生かされた私たちは、もはや赦すこと、愛すること、分かち合うこと、生かすことしか許されてはいない。教会はただそれらのことにおいて主に服従し、主の恵みを喜ぶ。
第五戒 あなたの父と母を敬え。
 主イエスによって解放され生かされた私たちは、年老いて弱さの中におかれた者たちを尊ぶ。戦争の時代、生きる価値がないとされた者たちは殺される。
 私たちは彼らと共に生きることによって、戦争の価値観を拒否する。教会は戦争の役に立たない群れとして生きる。
第六戒 あなたは殺してはならない。
 主イエスによって解放され生かされた私たちは、他者を殺しその存在を否定することができない。殺しのあるところに平和はない。
 私たちは殺さない。軍備のあるところに平和はない。
 私たちは殺すための備えを否定する。戦争に協力するところに平和はない。私たちは殺すことにつながる体制づくりに協力しない。
 暴力のあるところに平和はない。私たちは暴力の正当性を否定する。主に従う教会は敵を愛し、迫害する者のために祈る。
第七戒 あなたは姦淫してはならない。
 主イエスによって解放され生かされた私たちは、姦淫することができない。
 姦淫は人が性的欲望を持って他者の尊厳を侮辱することである。戦争は姦淫を正当化する。  姦淫のあるところに平和はない。私たちは姦淫をしない。
 教会は性の領域においても他者の尊厳を冒さない。
第八戒 あなたは盗んではならない。
 主イエスによって解放され生かされた私たちは、盗むことができない。しかし神が造られたこの世界は、常に搾取と収奪にさらされ盗まれ続けている。搾取と収奪は一部の富める者と多くの貧しい者たちを生み出し、紛争の要因となっている。
 富める者は自らの権益を守るため戦争をする。搾取と収奪のあるところに平和はない。私たは盗まない。教会は神が与えた恵みを分かち合う。
第九戒 あなたは隣人について偽証してはならない。
 主イエスによって解放され生かされた私たちは、偽証することができない。偽証は自己保身と悪の正当化の手段である。
 歴史に対する偽証はアジアの隣人との和解を阻害してきた。偽証のあるところに平和はない。 私たちは偽証をしない。主イエスの赦しを受けた私たちは、もはや保身のための偽証を必要としない。
 教会は罪をありのままに告白することによって隣人との和解を願う。
第十戒 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
 主イエスによって解放され生かされた私たちは、むさぼることができない。
 一切を独占しようとする私たちのむさぼりが、隣人を傷つけ、世界を破壊し、戦争を引き起こしている。
 死者さえもむさぼられ戦争の道具とされる。むさぼりのあるところに平和はない。私たちはむさぼらない。
 国、力、栄え、一切は神のものである。教会は一切を神に捧げ、奉仕に生きる。
結 語
 教会は戦争に協力した。私たちは十戒を守らなかった。さらに主イエスが十字架においてこの罪さえも赦し、応答に生きるために復活のいのちを与え給うたにもかかわらず、私たちはこの恵みを理解しなかった。
 赦された故に主の戒めを守る必要がないとさえ考えた。こうして私たちは主イエスの恵みを安価なものにしてしまった。そしてイエスは今日も十字架の上からそのような私たちを召しておられる。
 極限状況は暴力とその正当化へと私たちを誘惑する。
 しかしたとえそれが愛する者を守るための暴力であっても、その暴力行為によって私たちは主イエスの十字架の下で審かれる。
 私たちは主の審きと赦しのもとで十戒を生きるしかない。
 教会は主イエスに従う。教会は主イエス以外のものを断念する。教会は弱いものを尊ぶ。教会は殺さない。姦淫しない。盗まない。偽証をしない。むさぼらない。
 主イエスの十字架の和解はすでに成し遂げられた。絶望の闇はこれに勝たなかった。
 私たち復活のいのちに与り、平和を創り出す。主は世の終わりまでいつも私たちと共におられる。
 終わりの日に、主は敵意と殺戮、報復と絶望を完全に終わらせ、苦しめられてきた者たちの目から涙を全く拭い去ってくださる。
 教会は主が来られる時に至るまで主の死を告げ知らせ、和解の福音を担い続ける。
 主イエスよ、先立ちたまえ。
 伴いたまえ。我らを新たにしたまえ。
 聖霊なる神よ、我らをきよめ、平和の器となさせたまえ。
 父なる神よ、御国を来たらせたまえ。
 アアメン、主イエスよ、来たりませ。
 平和の主イエスよ、来たりませ。



福島原発震災の今を生きる私たちの声明

2011年11月11日
日本バプテスト連盟第57回定期総会

 福島原発震災の今を生きる私たちの声明
 私たちは第54回定期総会(2008年11月)において「我が国の原子力行政を憂慮し『無核・無兵』社会を目指すことを求める声明」を採択した。
 これは、日本の原子力政策(核燃料サイクル)が、これまで原発の「安全神話」、そして「経済神話」の偽りの宣伝のもと、その陰で、核のゴミの処理の問題を全て先送りし、核武装の野望をはらみつつ、膨大な被曝環境を生み出し、多くの犠牲者を踏み台にして、50年に亘ってひた走って来たエネルギー政策からの転換を求める私たちの信仰の決断、告白である。
 また「地震大国」である日本に原発がひしめいている異常事態故に「原発震災」の危機が迫っている事への警鐘も発してきた。
 しかしながら、2011年3月11日(金)14時46分に発生した東日本大震災において、地震と津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所の事故は、現実のものとなってしまった。
事故は収束の気配すら見えず、放射能汚染を伴って今なお現在進行中であり、その影響は世界中に及んでいる。
 多くの人々を悲しみと苦悩に陥れ、分けても幼い子どもたちの将来に、そしてまだ見ぬ未来世代や、環境に対して言い知れぬ暗い影を落とし続けている。
 この原発震災はまさに、預言者が指し示した偶像礼拝を彷彿とさせる「原発神話」にひれ伏し、慢心し、警鐘に全く耳を傾けることなく、傲慢に突き進んできた日本の「国策」と、その「国策」に無批判に迎合してきた政財官学からなる巨大産業体の引き起こした明かな「人災」である。
また大都市圏が享受する豊かな生活を支える電気を地方が生み出し、その危険を地方が押しつけられるという差別の構造が、本当に痛ましい現実と共に明らかとなった。
 また、現在に於いては放射能被曝に関する楽観的な「安心神話」の宣伝が政府、御用学者などによってなされ、この間、子どもたちの命が危機にさらされている現実を見過ごすことはできない。
 同時に、この原発震災に至るまでに、私たちの、原発と日本の原子力政策に対する認識の弱さと、これらを止めることが出来なかったことを私たちの主と、全ての人々に告白するものである。
 しかし、今、原発震災現地にあって避難せざるを得ず、住み慣れた土地、故郷を失った人々、子どもたちを抱え不安の中で途方に暮れている人々、日々命を危険に晒されている子どもたち、原発震災事故現場に於いて被曝のリスクを引き受けつつ、今日も懸命に収束作業にあたっておられる人々、そのただ中に、今、あの十字架の主イエス・キリストはおられ、人々の悲しみと苦難を共に担って歩んでおられると私たちは信じる。
 私たちは、悔い改めと共に、自らの果たすべき責任を今一度、確認する。何より私たちは、一日も早い事故の収束を祈り、今、信じがたいような被曝環境にあって苦悩と悲しみの中にある人々の声に耳を傾け、特にこれからを生きる子どもたちを、これ以上の被曝から守るよう共に祈り、共に行動する。
 日本にある全ての原子力発電所、再処理施設、高速増殖炉の即時停止と、持続可能な再生エネルギー社会への転換、そして残念ながら私たちの世代が生み出してしまった膨大な核のゴミを管理する事にこれまで培った原子力技術が生かされ、そこに英知が注がれることを、これまで以上に日本政府に求めてゆく。
 同時に既に被曝してしまった、福島を中心とする地域の自然と、寸断され、疲弊してしまった地域社会の回復を私たちの責任と覚え、そのために仕えてゆく。
2011年11月11日 日本バプテスト連盟第57回定期総会)


憲法改悪を許さない私たちの決意表明

2013年11月15日
日本バプテスト連盟第59回定期総会

憲法改悪を許さない私たちの決意表明
 いま、政府・自民党は「自民党改憲草案」を掲げ、日本国憲法を改悪しようとしています。私たちは、この「自民党改憲草案」はもとより、憲法改悪の動きに反対し、祈り、行動することを決意します。
 私たち教会は、かつて戦前・戦中に犯してしまった過ちを心に刻みます。
 天皇を神格化し、日本を神国と信じ、アジア近隣諸国への侵略戦争を正当化していった時代の中で、私たち教会はそれに迎合し加担し、神ならぬものに膝をかがめ、教会の保身を選んでしまったのです。アジア近隣諸国にもたらした惨劇、日本各地での空襲、沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキなどの悲劇を経て日本が敗戦に至ったとき、私たち教会も同様に破綻し、自らの生き方に敗北したのでした。
 そして制定された「日本国憲法」は、「主権在民」「基本的人権の尊重」「戦争の放棄」を柱とする新しい世界への招きでした。人間の生命・人格の尊重と、平和をつくりだす人となることは、本来教会こそが、聖書の真理として解き明かさねばならなかったものでした。
 私たち教会は、「日本国憲法」に問われたのです。しかし、まさにその時、私たち教会を問い、悔い改めを迫ったのは、和解を成し遂げようと招き続けておられる平和の主イエス・キリストご自身でした。
 私たちは「戦後」70年近くを歩んできて、今、改めて問われています。あの時の招きに応えて生きているか、と。真まことの神を神として畏れ従い、それゆえ人間世界の諸力に身を屈せず、神の義に立ち、平和をつくりだす者として生きることができているか、と。
 「日本国憲法」は、決して古い思想や枠組みではありません。
人と人とが共に生き、社会をつくる原理とビジョンであり、それは世界の人々が認めるところです。
 戦後の日本の歴史もそれへの途上であり、その道を目指して歩んできました。ですから「日本国憲法」は、決して「現実」に即して修正・廃棄されるべきものではなく、そこに向かって歩むべきものなのです。
 戦争はしない、戦争はしてはならない。それが、主イエス・キリストに従う私たちの道です。
それゆえ、「しても良い戦争」があるかのように考え、戦争ができるよう企てる憲法改悪を、私たち教会は許すことができません。
 私たち教会は、自らの戦争責任を心に刻みます。
 私たち教会は、これからも、国民主権、人権の尊重、戦争の放棄を堅持します。
 私たち教会は、国家による宗教の政治利用、教育への介入に反対します。
 私たち教会は、集団的自衛権の行使、特定秘密保護法の制定、国家安全保障会議の創設に 反対します。
 私たち教会は、「日本国憲法」が改悪されないために祈り、連携し、また行動します。
 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。(フィリピの信徒への手紙3章12節 )
(2013年11月15日 日本バプテスト連盟第59回定期総会)


「戦後」70 年に関する信仰的声明

2015 年 11 月 13 日
日本バプテスト連盟第 61 回定期総会

 日本バプテスト連盟第 61 回定期総会は、 「戦後」70 年を経て、主イエスにある信仰にもとづい て以下、平和に関する声明を行う。

1. わたしたちは、侵略戦争に協力した罪責を告白し、自らの戦争責任を覚え続け、継承する。
1940 年、日本のキリスト教界全体を戦争遂行体制に組み込む「宗教団体法」が成立し、日本バ プテスト連盟の前身・バプテスト西部組合は同東部組合と合同、「日本バプテスト基督教団」を結 成し、翌年に組織された日本基督教団に第 4 部として編入された。
以来「敗戦」までの 4 年余り にわたって、わたしたちは日本基督教団の内部にあって戦争に協力し、アジアの諸教会にも日本 への服従を強要した歴史をもつ。わたしたちは主イエスのみに従うべき信仰と教会を天皇崇拝、 国家の絶対化、そして戦争そのものに隷属させた。
わたしたちは今、改めてこの罪責を告白する。 安倍晋三首相は、「戦後 70 年談話」において「先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われま した」「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、 謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった 過去を、この胸に刻み続けます」と述べた。
ここではアメリカを中心とした「国際秩序」と戦っ て自国民の命が失われた事への後悔は表明されていても、アジア各地で日本軍が殺戮した数千万 もの人々のことや、 「従軍慰安婦」という名の下に性奴隷とされた女性たちをはじめ、アジアの人々 の中にその後 70 年にわたって残されてきた傷跡は無視され、戦争責任の継承は拒否されている。
「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ 1:14 口語訳)。わたし たちは平和の主イエスの十字架と復活における赦しと贖い、伴いと導きを信じるがゆえに、自ら の罪責に向かい合い、これを負い、継承する。
「戦後」70 年にあたり、わたしたちは和解の福音 を信じ、日本が自らの戦争責任を負い、自らが深く傷つけたアジアの人々との和解を実現してい くよう祈り、求め、行動する。

2. 「戦後」を生きるわたしたちは、平和憲法を守り、安保法制に反対する。
1946 年、日本は戦争の永久放棄を謳う日本国憲法を制定し、翌年これを施行した。日本国憲法 は日本が自らと、アジアの人々、そして世界に向けてなされた戦争への深い悔い改めと平和の約 束であり、戦争は二度としないという、未来にわたる永久の「終戦」の宣言だった。
そしてそれ は日本とアジア、そして世界の人々に深く受け入れられた。
わたしたちはこの約束と宣言を守る。 日本はこの憲法のもと、戦争を行わずに 70 年を経た。世界が戦火から解き放たれていない現実 の中、日本は日本国憲法によって「戦後」を生き続けてきた。わたしたちは今日も、明日も、 「終 戦」と「戦後」を生きる。
それが平和の主イエスの赦しの前で私たちが選び取る歴史的な悔い改 めであり信仰である。
しかし「戦後 70 年談話」で安倍首相は「我が国は、…その価値を共有する国々と手を携えて、 『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります」 と語った。
それはアメリカとの軍事同盟を強化し、 「価値を共有する国々」以外を敵とみなし、「戦 争による平和」「平和のための戦争」を肯定し支援し、これに参加して、戦争と戦争経済への依存 を強める意思の表示であった。
わたしたちはこれを拒否し、あらゆる戦争を否定する。わたした ちは敵を愛する信仰に生かされ、生きていく。
政府与党は、立ち上がった多くの若者たちを含め、 夥 おびただ しい人々が声を嗄 か らして「否」を叫ん だにもかかわらず、安保法制を強行採決した。わたしたちはこれに反対し続ける。わたしたちは これに従わない。これを認めない。
憲法 9 条は戦争に支配され縛られたこの世界に差し出された 対案であり、わたしたちはその破壊に反対する。
わたしたちは、平和のために祈り、発言し、行 動する。わたしたちは主イエスにあって平和を創りだす者たちとして立つ。

3. わたしたちは神の国の到来を信じ、真の「終戦」「 戦後」をめざし、平和をつくりだす主のか らだとして歩む。
日本は「戦後」、日米安全保障条約のもと、軍事経済同盟としてアメリカに追随し、その戦争へ の資金援助を行ってきた。
また湾岸戦争時の 1991 年ペルシャ湾に掃海部隊を派遣したことを皮 切りに、以降米軍の後方支援などを任務として自衛隊の海外派遣をなし崩し的に繰り返してきた。
日本の「戦後」は真の戦後ではなかった。 だからこそ沖縄は「戦後」ずっと米軍基地に支配されてきた。そこから、ベトナムへ、アフガ ニスタンへ、イラクへ、世界各地へ米軍機が飛び立ち、破壊と殺戮を行ってきた。基地周辺では 米兵による暴行事件が後を絶たない。今このときも辺野古では新しい基地建設が県民の反対意思 を無視して推し進められている。
日本はこうしてその「終戦」や「戦後」、「平和」、そして日本国 憲法からも沖縄を切り離し、疎外してきた。日本バプテスト連盟も同様に、沖縄を「伝道」の名 のもとに切り捨てた歴史をもつ。わたしたちは今改めて「沖縄『国外』伝道に関する総括」(1998) において行った罪責告白を継承し、沖縄と共に真の戦後、終戦を迎える日を目指す。
わたしたち は沖縄・辺野古における新基地建設に、日米安全保障条約とそれに基づいて締結・運用されてい る日米地位協定に、沖縄の、そして全ての軍事基地の存続に、反対する。
今、わたしたちの社会では構造的な貧困問題がかつてないほどに深刻化し、若者たちが困窮孤 立状態の中で喘ぎ、憲法 25 条が保障する生存権が脅かされている。
貧困はいのちを踏みにじり、 尊厳を剥奪する。貧困は人間を奴隷化し、若者を戦場へ駆り立てる。貧困のあるところに平和は ない。今日、貧困はわたしたちの信仰的課題である。
2011 年 3 月 11 日の東日本大震災と津波は、15,893 名の死者と 2,567 名の行方不明者を出した (警察庁発表、2015 年 11 月現在)。今も 19 万人以上が避難生活を続け、8 万人を超える人々が仮 設住宅での暮らしを余儀なくされている。
福島第一原発爆発事故で放出されてきた大量の放射性 物質は、自然環境を地球規模で汚染し、人々を被曝させ、健康被害の脅威に晒している。自殺な どを含む震災関連死者数は 3,331 名にのぼり、そのうち最も多い 1,914 名は福島県下で亡くなっ た人々の数である(復興庁発表、2015 年 3 月 31 日現在)。これは福島県下において震災で亡くな った方々の数を 300 名以上も上回る。
しかし政府は改憲を含む戦争体制への移行を優先し、被災 者を打ち棄ててきた。
棄民のあるところに平和はない。わたしたちは、被災地を覚え、祈り、支 援を続ける。
わたしたちはすべての原発の再稼動・新設・輸出に反対し、その廃炉を求める。 わたしたちは信仰に生きる。わたしたちは主イエスに従う。
戦争を煽り、引き起こし、利用し ようとする力が信仰と希望と愛、そして平和を脅かし、闇が一層深まるとも、わたしたちは絶望 しない。復活の主イエス、伴い先立ち給う。神の国はすでに主イエスにおいてこの世界にはっき りと姿を現した。それが完成へと向かって育つことを主イエスが示している。世界は真の平和の 実現へ、真の終戦へと向かう。それはやがてこの世界に生い茂り、この社会を覆い、戦争は外の 暗闇へと追い出される。主イエスご自身がその未来であり、その約束である。
その日を信じめざ し、わたしたちは主イエスの身体として平和を創りだす歩みを続ける。 「戦後」70 年にあたり、以上声明する。 アァメン、主イエスよ、来たりませ。平和の主イエスよ、来たりませ。
「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のよう なものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してど んな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」 (マルコ 4:30-32 口語訳)