日本バプテスト 福岡城西キリスト教会

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寺園喜基寄稿シリーズNo.1

このページは当教会の協力牧師である、前西南学院院長 寺園喜基師が、2013年6月1日に開催された 「西南学院学徒出陣戦没者追悼記念式」に寄せられた式辞を掲載いたします。

学徒出陣戦没者追悼記念式 式辞

 本日は西南学院学徒出陣戦没者追悼記念式を行い、亡くなられた方々を謹んで追悼し、 平和への願いを新たにしたいと思います。

 本学院は戦没者追悼記念式を1939年から43年までに4回、催しました。しかし戦後、催されたことはありません。
 わたくしは院長在任中、2006年に、西南学院が創立90周年を迎えた時、学院史を振り返りましたが、 戦時中、学生たちを「皇風宣揚に勇戦奮闘せられよ」(西南学院新聞、62号、昭和18年11月25日)と言って戦場に送りだした 当時の院長や学院指導者たちが、戦後、今日に至るまで、これについて沈黙していることに気づきました。 そして、歴史に誠実に向き合わねばならないことを自覚し、また呼びかけもしました。
 また、『西南学院大学ラグビー部史―80年のあゆみ』の編纂を担われた坂本譲氏は、編纂過程において部員の中に 戦死された方が多いことに改めて気付かれ、さらに、ラグビー部のみでなく、西南学院の学生、卒業生で学徒出陣により 戦死された方々について調査を行われました。坂本氏は2010年に来られて、調査の中間報告をされると共に、 学院として追悼式を行ってもらいたい旨の申し出をなさったのです。
 わたしはこれを真摯に受け止め、学院内での手続きを経て、学徒出陣70年にあたる今年、西南学院学徒出陣戦没者追悼記念式を 行うことが決定され、本日ここに記念式を行う運びに至ったのであります。
 1937年7月に始まった日中戦争は、マレー半島奇襲上陸、ハワイ真珠湾攻撃によりアジア・太平洋戦争へと拡大をしましたが、 ミッドウェー海戦を機に制空権を失って以来、日本軍は各地で敗北を重ねていきました。 1943年にはカダルカナル島撤退、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、アッツ島守備隊全滅という戦況の中で、この年の10月に 「在学徴集延期臨時特例」が公布されました。これにより、大学・高等学校および専門学校に在学中の文系の学生・生徒の 徴兵猶予が停止され、学徒出陣が行われたのでした。今からちょうど70年前のことです。
 本学院でもこの年の秋に仮卒業式、入営学徒壮行式がもたれました。仮卒業式における卒業生代表の学生は答辞において、 その決意をこう表明しています、「私共は、必勝の信念に燃え立って、神国日本の天壌無窮と大東亜戦争の必勝とを確信し、 私共のあとには、二年・一年の諸君が、また、その次の者が、強き西南魂を以て永遠につづくものと信じ、心残りなく第一線に 勇躍するものであります。」と、述べているのであります(七〇年史、上、678頁)。
 本学院は何と言って学生を戦地に送りだしたのでしょうか。学院を代表して、当時の院長は「壮行の辞」として、 「諸君は、皇軍の幹部として、中堅として、指導的立場に立ち、一隊を指揮命令すべき身分となられるのであります。 充分に自重せられ、衆の模範となられる様に、心掛けて貰ひたい。・・・今後、私は、ただ、諸君の健康と、諸君が武運長久にして、 君国のために挺身奉公される様に、朝に晩に祈り続けるものであります。」(前掲、西南学院新聞)と、述べているのであります。
 そして、周知の通り、この戦争は1945年8月15日、日本降伏によって終りを告げました。
 学業半ばにして戦場に赴き、死を迎えざるを得なかった学徒兵たちの気持ちは、どういうものだったでしょうか。 本学院で十分に勉強して、卒業後は社会の各分野へと羽ばたく、という夢を持っていたでしょう。 この夢が奪われ、文具を武具に持ち替え、戦地に行かねばならなかったのです。若い命が戦争において絶たれるということは、 無念なことです。それを思うと、心が痛みます。
 他方、この戦争においては、「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」 (1995年の村山談話より引用)。そして、学徒兵が赴いたのもまさにこの戦争でありました。
 日本政府は1995年に「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)を発表しました。 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、 多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、 疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを 表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」。 このように日本政府は「深い反省」と「平和の理念と民主主義」への決意を表明し、今日に至っております。
 また、ドイツはヴァイツゼッカー大統領が敗戦40年の1985年に、戦争に対する国の罪責告白を国会において内外に発表しました。 これは敗戦直後にプロテスタント教会が行ったステュットガルト宣言からの流れを受け継ぐものであります。
 わたしは昨年、院長退任後九カ月ほどドイツ・ケルン近郊のヴッパータール市に滞在しました。ナチスの時代、 最初にここから鉄道で政治犯、ユダヤ人等がアウシュヴィッツへ強制移送されました。それに対するドイツ国鉄の罪責告白の碑が 駅のプラットフォームに立てられています。人の背丈より一寸高い記念碑には、「ヴッパータール・シュタインベック駅から 1941年から1942年に亘って1000人以上のユダヤ人同胞が強制連行され、確実に死に渡された。生ける者には警告のために、 死せる者には記憶のために」という言葉が書かれています。また、驚くべき事にこの市の中央警察署の玄関にも、記念碑が立てられ、 そこにはこう書かれています。「我々は忘れない。・・・秘密国家警察はここで、政治的、宗教的、人種的、世界観的な理由によって 迫害された人々を逮捕し、尋問し、拷問した。犠牲者は社会民主主義者、共産主義者、教会関係者、他宗教信徒、ユダヤ人、 シンティ・ロマ、同性愛者、外国人強制労働者たちである。この多くはここから直接、強制収容所へ送られた。・・・ (以下省略)1991年9月1日、ヴッパータール警察署長」、こう書かれているのであります。
 本学院も学院としての戦争責任また戦後責任を表明することが必要であると思います。今年は学徒出陣70年に当たります。 聖書に、「七の七十倍まで赦しなさい」(マタイ18:22)というイエスの言葉がありますが、これを本学院に当てはめるなら、 「七の七十倍まで赦しを願いなさい」と言うことにならないでしょうか。本学院のことを振り返ってみますと、学院は戦前、 戦中に大変残念なことに、創立者C.K.ドージャーの遺訓「西南よ、キリストに忠実なれ」を貫くことができませんでした。 学院として当時の政府の戦争政策を批判することができず、教え子たちを学院の名で戦場に送りだし、多くの若い命を失わせて しまいました。また、それによって、近隣アジアの人々に筆舌に尽くしがたい惨禍を与えてしまいました。ここに本学院の教育的、 道義的な責任があります。わたしたちは、「神よ、学院の罪をお許しください」と、祈らねばなりません。
 さらにまた、学院の戦後責任もあります。それは、初めに申しましたように、学徒出陣に当たって「勇戦奮闘せられよ」 (前掲、西南学院新聞)と言って送りだした本学院は、戦後このことについて、現在まで沈黙してきました。 確かに学徒出陣は時の政府の決定であり、学院もこれに従わざるを得なかったことは事実です。しかし、少なくとも戦後、学院は、 学徒出陣戦没者に対して、アジアの隣人に対して、そして何よりも神に対して、「申し訳ないことをしました」、 「『殺してはならない』という神の戒めに背きました」ということを表明せねばなりません。さもないと、 あの「勇戦奮闘せられよ」は現在も続いている事になります。それ故、わたしたちは今日、学院の戦後責任をも覚えて神に赦しを 乞いたく思います。
 戦没者は如何なる思いで死んでいったのでしょうか。本大学英文科の河野博範教授の聖書研究会を通して福岡高校時代洗礼を受けて キリスト教徒となり、京都大学経済学部生の時、特攻隊員として戦死した林市蔵という人がいます。 (以下は『ある遺書 特攻隊員林市蔵』湯川達典、九州記録と芸術の会、1989年より)彼は特攻隊員としての死を目前にして、日記に、 「私達は死場所を与へられたるものである。新しく編成されたる分隊の下、私達は突込めばよい。」(122頁)とその決意を 記しています。しかし同時に、「だけど、私の母のことを考へるときは、私は泣けて仕方がない」(123頁)と、早く夫を亡くし、 福岡女学院で寮母として働きながら育ててくれた、母への思いを吐露しています。出撃前日と付した手紙にはこうあります。 「お母さん、でも私の様なものが特攻隊員となれたことを喜んで下さいね。死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる 私達ですからね。でも、お母さん、やはり悲しいですね。悲しいときは泣いて下さい。私もかなしいから一緒になきませう。 そして思ふ存分ないたらよろこびませう。私は讃美歌をうたひながら敵艦につっこみます。」(144頁) このように母親に語りかけるのであります。そして、戦後に生き残る者たちに向かって、日記にこう記しています。「残る世の人々が、 きたなかろうとも、・・・私は国の美しさを知っている。世人の幸福といふ漠たるものは私の胸を打たないけれども、 祖国の栄へるといふことは、危急のときにあたって私の必死の願ひである。」(124頁以下)。このようにして、 彼は母親との天国での再会と祖国の栄えることを望んで、死んでいったのであります。
 特攻隊員・林市蔵の死、西南学院から学業半ばにして出陣し没した学徒兵たちの死、また、アジア・太平洋戦争における 戦没者や犠牲者の人たちの死、これは本来あってはならない死であります。わたしたちはこのような死を許すべきではありませんし、 また二度と起こすべきではありません。日本が憲法第九条をもっているのは、このような反省と決意があるからであります。 平和憲法を守る努力、換言すれば「剣を打ちなおして鋤とし、槍を打ちなおして鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、 もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2:4)という努力、これこそが亡き人たちへの誠実な答えであります。
 聖書は「平和を願って、これを追い求めよ」(Tペトロ3:11)と語ります。また、「平和を実現する人々は、幸いである」 (マタイ5:9)とも語ります。学院に集う者たちも、また今は社会にある卒業生たちも、熱心に平和を願い、追い求め、 実現する者になって行きたいと思います。
 本学院中学校の卒業生である中村哲医師は、アフガンの地で、医療活動と水利工事活動を通して平和実現のために働いておられ、 現地から、「平和とは言葉ではない」と報告されます。(西日本新聞、2013年5月27日、1頁と3頁)
 わたしたちは、それぞれ置かれている場所で、それぞれの仕方で、平和を実現する者であり、それを通して、キリストに忠実であり、 この世界にインパクトを与える者でありたい、と願います。
 本日の追悼記念式において共々に、以上のことを心に刻みたいと思います。