日本バプテスト 福岡城西キリスト教会

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寺園喜基寄稿シリーズNo.7

ただし、責任を負い得る限り

寺園喜基 師 

文部科学省の研究費を受けて出張する機会が与えられました。
  主としてドイツ・ボン大学資料館とスイス・バーゼルのバルト資料館で、1933年〜35年までの間の神学者カール・バルトのボン大学内外における学問的・社会的活動について調べたり、 研究者たちと懇談したりするという目的でしたが、ほぼ達成できて感謝しています。
  1,2月のドイツ、スイスは例年最も寒い時期なので相応の覚悟で行ったのに、今年は暖冬らしくて、帰国後の福岡の方が寒く感じられます。
  ボン大学は若い時、4年間学び博士論文を書いたところなので、私の第三の母校に当たります。その後、何度も渡独しているのに、ここには来ていませんでしたから懐かしさでいっぱいになり、 町のあちこちや住んでいた学生寮、叉学内を歩き回り、学生食堂も訪れました。
  その日の定食は以前と変わらない大皿いっぱいの具沢山野菜スープとこれまた大きなソーセージ、貧乏留学生には量も味も嬉しかったのに、今回はたいらげるのにやっとの思いでした。
  バルトは1933年ヒットラーが政権を取って以来、この政権と対峙することになりました。同年6月に、政権の宗教政策に対する闘争的論文「今日の神学的実存」で基本的な反対表明をなし、 冬には学長の「すべての授業の始めと終わりにドイツ式敬礼(右手を挙げてハイル・ヒットラーと叫ぶ)をするように」という要請を拒否し、 また翌1934年には総統ヒットラーへの忠誠誓約をせよという文部大臣の命令をも拒否したのです。
  前者には学長の不快感が示されたのみでしたが、後者は国家に対する命令違反として裁判にかけられることになりました。その間、 独裁政権に対するドイツ教会闘争の第一歩であるバルメン会議を指導し、「バルメン宣言」を発表します。また学内では、月、火、木、金の毎朝、7時から8時まで教義学の講義をし、 他に週2回のゼミを開いています。裁判はバルトに不利な結果となり、大学を罷免されることになりました。
  学内活動を禁止された後は、自宅で自主ゼミを開いたり、オランダのユトレヒト大学に汽車で通って週一回講義したりします。 しかしそれも続けることは許されずに、国外に追放されます。そのようなバルトをバーゼル大学が招聘し、教義学の講義を継続することになり、以後はスイスから教会闘争を指導します。
  大学資料館で束に括られた当時の裁判記録等をめくっていますと、バルトのサインのある一枚の資料が出てきました。それにはタイプライターで 「ドイツ帝国と民族の総統アドルフ・ヒットラーに、私は忠誠と服従を誓うつもりである、ただし私がこれに福音的キリスト者として責任を負い得る限りにおいて」と書かれてありました。 しかもこの但し書きは赤色で印刷されているのです。
  文献で知ってはいたものの実物を目の当たりにして、何とも言えない衝撃を受けました。 出張で得た多くの実りの中で、「バルト事件」の証拠文書を手にし、良心の自由のための戦いの重さを実感したのが、最大の収穫だったように思います(2008年2月)