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寺園喜基協力牧師の寄稿文

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「使命感をもった生き方」
「ただし責任を負い得る限り」
「苦難に立ち向かう能力とビジョン」
「待つ喜び」
「ワイマールの秋」
「学徒出陣追悼式 式辞」

使命感をもった生き方

 W.M.ギャロット先生について創立記念日にお話ししましたが、それも含めてもう一度先生の事について、触れたいと思います。
 私は先生からギリシャ語と新約聖書原典購読を習いました。
 先生は左利きでしたので、黒板には独特の書体で字を書かれました。
 漢字もよく知っておられて、 ある授業時間に黒板の漢字の間違いを指摘しようとしたら、間違っていたのは私の方でした。そしてにやりと笑って、「寺園さん、私はあなたが生まれる前から日本にいますよ」と言われてしまいました。教室は爆笑に包まれ、私は赤面してしまいました。
 チャペルでは、ステージ上の椅子に長い脚を大きく組んで腰かけ、祈るときも足を組んだまま右手をつぼめて額に当て、また話し出すと大きな身振り手振りをし、壇上を行ったり来たりして、大きな声を出されました。当時の日本ではあまり行儀がよいとは言われなかったかもしれません。
 先生が語られた中で今でも覚えているのは「使命感を持った生き方をしなさい」という言葉です。ただ動物的に本能的に生きるのではなく、人間らしく目的を持って生きなさい、という事をしばしば話されました。
 私自身は高等学校を卒業するとすぐに、牧師を目指し周囲の反対を押し切って神学部に来ただけに、何を今さら分かり切った事をと軽い反発を覚えたものでした。しかし先生の言葉は、非常に重いご自身の経験から生まれてきたのだということを、その後に知りました。
 第二次世界大戦前、このギャロット先生は、日米関係が緊迫しすべての宣教師たちが米国へ引き上げる中、日本のことが心配で家族を帰した後、ただ一人日本に留まられました。
 戦争が勃発すると、敵国人として収容所に入れられました。収容施設は多摩川のカトリック教会で外出等は自由でしたが、食糧物資の配給はなく、八百屋の前に落ちている野菜屑を拾って食料の足しにされていたそうです。
 一人の日本人クリスチャンがこれを聞き、自分の家族の配給物資を割いて、先生の健康維持に努めたということです。
 先生は1942(昭和17]年2月の最後の日米交換船で強制送還されたのでした。帰米後は主に日本人の収容キャンプ で奉仕されました。先生はある外国伝道のための大集会に招かれ、メッセージをするようにと指名されました。
 しかし講壇に上がった先生は様々な思いに一度に襲われて、そこに立ちつくしたまま一言も言葉を発することができませんでした。
 傍らにいたミッション・ボード総主事のM.T.ランキン博士が、「日本を愛している者のみが知る心の苦しみ、愛の悩みです」と言って、先生の沈黙を取り繕ってくれました。
 戦争が終わると先生は直ちに来日し、戦後の学院の 発展に寄与されたのでした。
「使命感をもった生き方をしなさい」という言葉は、何よりも先生自身の生き方でした。だから私達にも伝わってきます。生き甲斐とか生きる意味などの喪失が多く語られる今の時代、使命感を持ち頭を上げ胸を張って、日々を過ごしたいと思います。(2004年6月)
(”西南の風”  寺園喜基)


ただし、責任を負い得る限り

  文部科学省の研究費を受けて出張する機会が与えられました。
 主としてドイツ・ボン大学資料館とスイス・バーゼルのバルト資料館で、1933年~35年までの間の神学者カール・バルトのボン大学内外における学問的・社会的活動について調べたり、 研究者たちと懇談したりするという目的でしたが、ほぼ達成できて感謝しています。
  1,2月のドイツ、スイスは例年最も寒い時期なので相応の覚悟で行ったのに、今年は暖冬らしくて、帰国後の福岡の方が寒く感じられます。
  ボン大学は若い時、4年間学び博士論文を書いたところなので、私の第三の母校に当たります。その後、何度も渡独しているのに、ここには来ていませんでしたから懐かしさでいっぱいになり、 町のあちこちや住んでいた学生寮、叉学内を歩き回り、学生食堂も訪れました。
  その日の定食は以前と変わらない大皿いっぱいの具沢山野菜スープとこれまた大きなソーセージ、貧乏留学生には量も味も嬉しかったのに、今回はたいらげるのにやっとの思いでした。
  バルトは1933年ヒットラーが政権を取って以来、この政権と対峙することになりました。同年6月に、政権の宗教政策に対する闘争的論文「今日の神学的実存」で基本的な反対表明をなし、 冬には学長の「すべての授業の始めと終わりにドイツ式敬礼(右手を挙げてハイル・ヒットラーと叫ぶ)をするように」という要請を拒否し、 また翌1934年には総統ヒットラーへの忠誠誓約をせよという文部大臣の命令をも拒否したのです。
  前者には学長の不快感が示されたのみでしたが、後者は国家に対する命令違反として裁判にかけられることになりました。その間、 独裁政権に対するドイツ教会闘争の第一歩であるバルメン会議を指導し、「バルメン宣言」を発表します。また学内では、
月、火、木、金の毎朝、7時から8時まで教義学の講義をし、 他に週2回のゼミを開いています。裁判はバルトに不利な結果となり、大学を罷免されることになりました。
  学内活動を禁止された後は、自宅で自主ゼミを開いたり、オランダのユトレヒト大学に汽車で通って週一回講義したりします。 しかしそれも続けることは許されずに、国外に追放されます。そのようなバルトをバーゼル大学が招聘し、教義学の講義を継続することになり、以後はスイスから教会闘争を指導します。
  大学資料館で束に括られた当時の裁判記録等をめくっていますと、バルトのサインのある一枚の資料が出てきました。それにはタイプライターで 「ドイツ帝国と民族の総統アドルフ・ヒットラーに、私は忠誠と服従を誓うつもりである、ただし私がこれに福音的キリスト者として責任を負い得る限りにおいて」と書かれてありました。 しかもこの但し書きは赤色で印刷されているのです。
  文献で知ってはいたものの実物を目の当たりにして、何とも言えない衝撃を受けました。 出張で得た多くの実りの中で、「バルト事件」の証拠文書を手にし、良心の自由のための戦いの重さを実感したのが、最大の収穫だったように思います(2008年2月)



苦難に立ち向かう能力とビジョン 

            ―日本キリスト教社会福祉学会・特別講演、2007年6月―
はじめに
 ただいま紹介を頂きました寺園でございます。日本キリスト教社会福祉学会を西南学院で開いて下さいまして、本当にありがとうございます。しかもこの学会におきまして、講演をするようにという事でございますが、大変もったいない事だと畏れ多くも引き受けさせていただきました。
 この題ですけれども、「苦難に立ち向かう能力とビジョン」は,賀戸先生を通して実行委員会の先生方からいただいた題でございます。試験問題を与えられ生徒のようなつもりで、私はこの題を与えられて以来、考えてまいりました。
そういうことですので、御一緒に学びをするという意味でお話をさせていただきたいと思います。
 2003年に久山療育園の川野先生や宮崎先生を中心に関係者の方々と、勉強会の結果として本を出版しました。「ひびきあういのち」というタイトルで、サブタイトルとして「障害者神学への道」という題をつけましたけれども、新教出版からだしました。
 それもあって私も福祉の問題、障がいの問題、苦難の問題を少しばかり学ばせて頂きましたが、それも私の学びの材料になっているかなと思っております。
 前もって頂きました資料に、この学会に立場の表明が、キリスト教社会福祉学会の研究史の第39号に載っております「学会表明2004」です。その中に「苦難と希望、変革と主体」という小さな見出しの項目がございます。そこにこう書かれております。
 キリストにおける具体的な形が、苦難を希望から分離できないように、社会福祉実践もまた、苦難と希望を分離することはできない。福祉の対象者も従事者も、苦難の中に生きる。苦難の多い、しかし希望によって苦難を超え、希望の光によって苦難を交わりの創造の力とする。
希望は苦難の中で、社会福祉実践に終末論的な性格を与える。そういう言葉がございます。そして少し飛びまして、希望は歴史実現を開く変革のエートスである。希望を知る者は苦難の現実を既に超えて歩みつつ、完成され新しくされた現実を将来に待ち望む。
 そういう言葉でございます。私はこの言葉に非常に感銘を受けました。そして私のお話することは、この言葉についてのほんの小さなコメントにすぎないのではないか、と思っております。
それで私はレジメにあります通り、3つにことを中心にお話しさせていただきたいと思います。

一、苦しむ能力・・苦難についての宗教の二つの態度
 最初の章に、「苦しむ能力」という題をつけさせて頂きました。苦しみ、苦難ということについて、二つの宗教的態度があるのではないかと思います。
一つは、苦しまない能力こそが大切であって、宗教は、あるいはある宗教を信じる事は、苦しまない能力、苦しみから避ける能力を与える、と考える宗教があると思います。それは何教,何宗というのではなくて、キリスト教の中にもそういう捉え方があると思います。
 他の一つは、これはキリスト教、特に十字架を、十字架の神学を基としているもので、苦しむ能力が信仰の賜物だという捉え方があると思います。まずその事からお話をしたいと思います。
①信仰の賜物としての「苦しまない能力」
 普通、これは宗教学で一般的にいうことですけれども、御利益宗教、苦しい時の神頼み、という事がよくいわれます。苦しいから神様におすがりする、信心をする。占いをしたり、おまじないをしたりする。
 新宗教の捉え方として、貧困と病気と争いからの救い。「貧・病・争からの救い」ということを申します。そして貧・病・争から救われ、あるいは貧・病・争にかからないように信心をする、というのであります。
 例えば、明治の頃の新宗教の代表は天理教ですけれども、「病気や争いからの救い」ということを中山みきさんは強調しました。また第二次大戦後の創価学会は、特に「貧」からの救いということを強調いたしました。
 南無妙法蓮華経を唱えれば、お金が沢山金庫の中に貯まり、庭の前には自家用車が並んでいるようなそういう生活が出来るから、そしてそれは来世のことではなく現世において出来るから、法蓮華経を唱えなさいと。
 第三代の会長になった池田大作氏は当時、そういう説教をしたのであります。
 あるいは1980年代90年代になりまして、オウム真理教はすべて物質的に満ち足りた時代で、なお何か足りないということで、生きがいを求めながらあえて断食や苦行をして解脱する、という事を唱えました。
 そしてその解脱は自分が光になる、光を見た、あるいは光と一体となったという肉体的な経験として表現され、それを持って解脱と言いました。この運動が進むにつれて、解脱の表現としての光の体験を得るために、薬物を用いるようになったのであります。
 ともあれ、日本近代の新宗教運動、そしてオウム真理教などの新・新宗教などを見てみますと、貧・病・争、あるいは生き甲斐のなさ、そういう事からの救い、そういうことにかからないような救いを求めたと思います。
 それはそれで悪くはない。キリスト教でも、「神様おなかがすきました。食べる物をください」と祈ります。イエスも主の祈りで、そう祈れと言っておられます。
 貧・病・争からの救い、それはキリスト教も言うでしょう。ただしかし、キリスト教のメッセージと新宗教のメッセージの違いは、私の願望を先立てて、それを実現することだけを第一にするのか、それはおまじないなのですが、それとも神の意思を問い、求める「祈り」なのか、この違いだと思います。
 「まじない」とは、私達が願望を持っていて、それの実現のために超越的な力、宗教を持ちだしてきて、そしてそれを願望実現の手段とする、という事が出来ます。
 それにたいして「祈り」は、私達はなんでも祈っていい。しかしそれを実現してくださるのは神の意思だ。だからイエスがゲッセマネで祈られたように、「この杯をどうか除いてください、取り除けてください。しかし私の思いではなくて、神様の御心(みこころ)を行って下さい。アッバ父よ」そう祈ります。
 祈りはまじないと決定的に違うのであります。
 まじないの典型的なのが、今梅雨の季節に入りまして思ったんですけれども、「照る照る坊主の歌」です。♪照る照る坊主、照る坊主・・なんとも可愛らしい歌ですけれども、その願いが叶って天気になると、甘茶を上げよう。
しかし三節を御存じでしょうか。それでも天気にならないと、「♪お前の首をチョンと切るぞ」。これは可愛いというよりも、ひじょうに残酷な歌であります。「まじない」は基本的にそういうことろがあるでしょう。
 「祈り」は願うのは自由ですけれども、しかしそれを成就するのは神様の御心であって、私のせいではない。そこのところが決定的に違うと思います。
 こういう風に考えますと、御利益宗教や幸福宗教といわれるもの、あるいはキリスト教の中でも時々見られる幸福宗教的な教えというのは、信仰の賜物として苦しまない能力を教える。苦しまない能力を保障するものであります。
②キリスト教における「苦しむ能力」
 それに対して、積極的な意味でのキリスト教のメッセージは、苦しみや苦難について「苦しむ能力」を教えていると思います。パウロの言葉の中に、ローマの信徒への手紙の5章の2節ですけれども、「苦難を誇りとします」と言われています。
 苦難をうけたことを自分は誇る、というわけです。苦難を、罰があたったとか、裁きの結果だとかはとらない。パウロは苦難を誇りとします。
 この訳は新共同訳ですけれども、それ以前の協会訳では「艱難をもよろこんでいる」、と言われております。
 さらにパウロから学んでみましょう。コリントの信徒への手紙では、パウロはある論敵達と敵対しておりました。それはいろんな言い方があるかもしれませんが、アポロとその一派の「栄光の神学」といわれるグループで、パウロの「十字架の神学」に対立するものであったといわれています。
 栄光の神学とは、キリスト者になると、自由な栄光に満ちた、この世のあらゆる束縛から解き放たれた自由な生き方が出来ると、一方的に強調する神学であります。そしてもう自分達は救われてしまった、もう自分達は自由だ、強い、という意識で生きたのです。
 それに対してパウロは、あえて十字架を誇る。十字架に従う者として艱難を喜ぶ、そういうのであります。
 聖書をちょっと見てみますと、「コリントの信徒への手紙」第一の4章8節に、パウロはこういう風に言っています。
 あなた方は既に満足し、すでに大金持ちになっており、私達を抜きにしてかってに王様になっています。いや、zっさい王様になっていてくれたらと思います。そうしたら私もあなた方と一緒に王様になれたはずですから。
 ここで「あなた方」と言われているのはパウロの論敵達のことで、この人達はすでに信仰において満足している。すでに大金持ちになっている。かってに王様になっている。そう言ってパウロは批判するのであります。
 それに対してパウロはキリストの十字架につける者として、むしろ逆の生き方を選ぶというわけです。
「コリントの信徒への手紙」第一の手紙の4章の10節以下に、こうパウロは書きます。
 私達はキリストの為に愚か者となっているが、あなた方はキリストを信じて賢いものとなっています。私達は弱いが、あなた方は強い。あなた方は尊敬されているが、私達は侮辱されています。
 今の今まで私達は飢え、乾き、着るものなく虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られては優しい言葉を帰しています。今に至るまで、私達は世のくず、すべてのもののカスとされています。
 パウロはこの言葉でもって別にひがんでいるわけふぁない。むしろ、十字架に従う者として、敢えて賢い者ではなくて愚かな者となる。強いものにならないで弱い。尊敬されている者にならないで侮辱されている。そういう事を、一般に世の人は世のクズ、全ての者のカスとしている。
 しかしパウロは、それをむしろ誇る、と言うのであります。
 あるいは、もうちょっと聖書にこだわりますと、同じ「コリントの信徒への手紙」第一の6章の12節に、こういう言葉もあります。「私には全ての事が許されている。」こう栄光の神学の一派が言います。これはカッコで括ってあるんですけど、「私には全ての事が許されている」この言葉をパウロは切り返します。
 「しかし全ての事が許されているわけではない。」あるいはまた敵対者は、「私には全ての事が許されている」というと、さらにパウロは「しかし、私は何事にも支配されていない。」そういうふうに論敵達が、全てが許されている、全てが自由だということに対して、パウロはすべてが自由なわけではない、神の為に僕となって生きる事こそが自由何だ、というこ戸を誇るのであります。
そして決定的に、パウロは自分が誇る事をさらにコリント の信徒への第二の手紙の11章のところで、こういうふうにも言います。
 誰かが何かの事であえて誇ろうとするなら、私も敢えて誇ろう。愚か者になったつもりで言いますが、敢えて誇ろう。そういうふうに自分は誇りのリストをここで書きます。
 その誇りのリストは何かというと、苦労したことはずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目にあったのもたびたびでした。
 ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれた事が三度、石を投げつけられたことが一度,難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難,同朋の難、異邦人の難、町での難、荒野での難、海上の難、にせ兄弟達からの難に遭い、苦労し,骨折って、しばしば眠らずにすごし、飢え、乾き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
 これがパウロの誇りでありました。そしてパウロは苦しみ、苦難ということを一つの神の賜物として、そして苦しむこと、受難という事を、賜物を受けた私達の能力として、語っているのではないか。
そしてそれが聖書のキリスト教の私達へのメッセージじゃないのかな。そういうふうに思うのであります。
 このようにして、苦難が私達の苦しむ能力であるならば、その根底にはパウロの場合に見ましたように、キリストの十字架、神の苦難という事があるといわなくてはいけない。では、その神の苦しみということをどう理解するか。

ニ、キリスト論のテーマとしての「苦しむ神」
 ここで少し神学的な議論になりますが、苦しむ神、あるいは神の苦しみについて触れてみたいと思います。
 苦しむ神については、キリストにおいて何が起こり、キリストがどういう生き方、死に方,そして甦りをしたかということを見る事によって、私達は知る事が出来ると思います。
 少し結論を先取りした言い方でいえば、社会福祉の神学があるとするならば、その神学は創造論に基礎付けるべきではなくて、キリスト論に基礎づけられるべきではないのかと私は思います。
 もしも社会福祉の神学や障がい者の神学が、創造論に基礎づけられるなら、その様な神学は神の善き創造という事から出発するわけでしょうが、神の善き創造ということをベースにして福祉の問題や障がいや苦難の問題を考えると、障がい者は神の失敗作か、という疑問が出てくるのであります。
 私は、ひじょうに飛躍した言い方かもしれませんが、創造論から語る神学は、差別を生みだす神学だと思います。それに対して、もしも社会福祉の神学や障害者の神学というものがあるとすれば、それはキリスト論から、つまりキリストの十字架と復活から基礎付けられるべきではないのか、と思います。
①「哲学者の神」
 近代の思想家のブレーズ・パスカルは、有名な覚書を残しました。それは彼の死後、上着に縫いこまれていたのが発見されて『パンセ』に載せられて居ります。
 そのパスカルの覚書はこういう文章です。
 恩寵の年、1654年日曜日、11月23日。殉教録による教皇殉教者聖クレメンス及び他の人々の日。殉教者聖クリソゴノス及び他の人々の日の前夜。およそ夜9時半よりおよそ0時半頃まで。火、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者や学者達の神ではない。確かさ、確かさ、感得、喜び、平安。イエスキリストの神、私の神にして、我々の神。
 このような言葉です。哲学者や学者達の神ではない。哲学者アリストテレスや神学者トマス・アクィナスのいう神ではない。そうではなくて、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエスキリストの神。その神こそ、私の神にして、我々の神。
 パスカルはこの夜に一つの神秘的な体験をしたのでしょう。その時の核心の言葉であります。
 哲学・形而上学の神は、苦しむ事ができない。その神は、存在の根源あるいは究極的存在、また第一原理の事である。その様な神は、歴史の神ではない。生成する、運動する神ではない。
 形而上学にとって、運動は不完全であります。運動する神は不完全な神、ということになります。しかし、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、歴史の中でイスラエルと共に生き、苦しみ、喜ぶ神です。イエスキリストの神は十字架と復活の神であります。
 ルターは宗教改革以来、哲学から神学を解放し、キリスト論を、キリストの十字架と復活を神学の主たるテーマとしたと思います。そして人間イエスの苦しみを神の苦しみとして、人間イエスが十字架につけられてことを神の苦難として、私達に教えていると思います。
②苦しまない神について
 その様な十字架における苦しみ神の教えに対して、苦しまない神を考えている考え方があります。
 一つ考えますのは、私の先生の、滝沢克己先生の場合です。滝沢克己先生は西田幾太郎の哲学に出会い、そのあとカール・バルトに1930年代にドイツで出会い、そしてバルト神学と西田哲学を融合する形で、独特の思想を展開されました。
そして「全ての人間存在の根源には、神が共に生きるという、そういう根源的な規定がある」ということを教えてくださいました。それは大変喜ばしいメッセージであります。
 その喜ばしいメッセージを具体的に活きて見せたのが、滝沢先生によれば人間イエスでありました。人間イエスが来たから、「かみともにいます」・インマヌエルという規定が起こったのではなくて、すでに創造の初めからあった神ともにいますという規定は、旧約聖書においては十分生きられなかったけれども、イエスにおいて十全的に生きられた・言の意味でイエスは完全な人間、完全な徴である、と考えられております。
 ではイエスの十字架とは何か、復活とは何かといいますと、滝沢先生の場合には、十字架とは、神に従って完全に活きた人間が、この世の中で被らざるを得なかった一つの悲劇を意味します。
 そして復活とは、さまざまな、徴なしでも、人間イエスなしでも、インマヌエルの事実は生きているという、その根源的な事実の自己証明だ、そういうふうに教えられるのであります。
 それはそれで興味ある主張ですけれど、しかし「神の苦しみ」というのは、滝沢先生の場合は、神ご自身が歴史の中で苦しむということは考えられないのではないかと思います。
 神は、インマヌエルの神は、根源的な事実として歴史の限界にあるのであって、歴史の中に入ってくるものは全て徴にすぎません。
 人間イエスについてもそうです。そう考えますから、神が歴史のこちら側で受肉、苦難するということは考えられません。
 私は滝沢先生の場合だけを上げましたけれども、キリスト教神学をイエス論だけで述べようとする多くの聖書学者は「人間イエス」については苦難を語っても、そこには神の苦難はないのではないでしょうか。
 神は歴史の後方にいるままではないのか。だから、これも非常に極端な言い方をすれば、人間イエス論者は人間論者ではあっても、神について語っていない、と思うのであります。
 二つ目に考えたいのは北森嘉蔵氏についてです。北森氏は非常に感動的な仕方で、神の痛みを語ります。それはある意味で、苦しまない神ではなくて、苦しむ神の語りであります。 それは素晴らしい事です。北森先生はこういう文章を「神の痛みの神学」の中に書かれますが、ちょっと引用しますと、「我々は神の御心をつぶさに知り、神の深き所まで極め、福音の心を洞察せねばならぬ。」
 ではその福音の心とは何かというと、彼は記します。「私にはこの福音の心は、神の痛みとして示された。」福音の心は神の痛みとして示された。そう語られるのであります。
 そして「ギリシア人の心は神の痛みを見る目に欠けていたし、ギリシア哲学・形而上学に影響されたキリスト教神学も、この神の痛みを忘れている。すなわち苦難の神を語ろうとしていない」と批判されるのであります。
 それは素晴らしいことだと思います。
 しかしなgら、この「神の痛み」というのを説明するに先生は、日本語の「辛さ」という言葉で置き換えられます。辛さというのは、他者を愛して生かすために、自己を苦しめ、死なしめ、もしくは自己の愛する子を苦しめ死な占める、ということです。
 そしてその例として、浄瑠璃の「寺小屋」を引き合いにだされまして、「敵の手から君主の子供を救うために、自分の子供を身代わりに殺させる主人公の辛さ」で説明するのであります。
この主人公、松王丸は君主に仕える忠良なる家臣として、自分の息子を犠牲として殺させ
る。「女房喜べ、せがれはお役に立ったぞ。」そうその主人公は言って、辛い気持ちを表現するというのであります。
 私は、神の痛みということと、それについての辛さという解釈の中に、北森氏の中に大きなギャップがあるのではないかと思います。辛さというのは、ここでは父親の君主への忠誠心を語っているにすぎないのであって、いわば中世的な封建主義的な忠誠心を語っているにすぎないのであって、殺されゆく子の痛みということは、もう少し徹底して言われるべきではないのか。
 辛さと痛みというのは、果たして十分機能しているのか。だから北森神学において、神の痛みはどこまで徹底して十字架の神学なのかという事を、疑問に思うのであります。
 私はこういうことを考えておりました時、皆さまの学会誌「キリスト教社会福祉学研究」第39号で、岡山幸太郎先生の文章に出会ってハッとさせられました。
 こういう文章です。岡山先生は北森氏はバルトの名前を挙げられますけれども、北森先生の事をどう意識しておられるかわかりませんが、私なりに次の文章に惹かれました。
 現代では、今ここでより一層重要な事は、「わが腹痛む」は、ただ単に心的悲痛の表現にとどまらず、さらに人間の弱さに対する看過し得ざる有効射程としての心的創造力である。神が人間の弱さを自ら引き受け、ご自身のも野とされたことにより、今や人の弱さは神聖を帯び、触発する創造力を持った聖性を通して他者に働きかけていくという事実である。
という文章であります。
 「わが腹痛む」これは明らかに北森氏の言葉ですが、これはただ単に心的悲痛の表現じゃないのかと、そう言っているように私は思います。そして私もそれに同感します。心的悲痛の表現ではなくて、痛む神ご自身の創造力、創造的な力、その点で私は北森先生にまだ不徹底な点があるように思うわけです。
③十字架における苦しむ神
 では私は苦しむ神、十字架において苦しむ神ということを何処から多く学ぶかというと、ボンヘッファーやカール・バルトの神学においてであります。
 ボンヘッファーのキリスト論、これはベルリン大学でした講義録ですが、これを見ますとキリスト論の中心というのは、「真の神が真の人として生きたそのキリストが、ご自身を卑下されて、卑しくされて、罪と死の世に中に入っていく、そこに苦しむ神が居られる。」そういうのであります。
その中心になる文章を読んでみます。
 卑下においてキリストは自分から、罪と死の世の中に入って行くのである。彼は世の中で弱さの中に自己を隠し、自分が神・人であることを決して人の見せびらかしたりしないような具合に、世の中に入っていく。
 彼は神の形という王者の衣を纏ったりはしていない。このような姿の神・人としての彼が持ちだす要求は、矛盾と敵対を触発せずにはおかない。
 彼は微行の姿であらゆる人々の内最もみすぼらしい乞食、最も排斥された者、最も深く絶望したもの、もっとも痛ましく死んだものとしてやってくる。彼はまた、罪人の中の罪人として、だが、最大の罪びと(ルター)として、罪人の中の罪なきものとして入っていく。ここに中心がある。そういうのであります。
 そしてその事を端的にカール・バルトは「ゴルゴダの最も深い闇においてこそ、この上もなく父なる神と一つになるという栄光の中に生きたまう。あの神に棄てられた状態においてこそ、神に直接愛された人間でありたまう」と述べます。
 これがバルトの和解論の中心的な命題だと思います。イエスはゴルゴダの最も深い闇においてこそ、其の上もなく、父なる神と一つになるという栄光の中に生きたまう。
 あの神に棄てられた状態においてこそ、神に直接愛せられた人間であり給う。
 時間の都合でバルトやボンヘッファーの神学を展開することはできませんけれども、十字架において神は苦しまれた。子なる神は殺され、父なる神は共に苦しまれた。そして、十字架の悲惨こそが、神の栄光だった。そうバルトは言うのであります。そして、十字架の悲惨こそが神の栄光だった、そうバルトは言うのであります。そしてその視点は、復活の光からなのであります。神が苦しむということに、そして神が苦しむ事が出来たし、現実に苦しまれた。それを通して復活が出来事となった。
其のキリストの出来事としての苦しむ神から、私達も苦難を見る視点が開かれて来るのではないでしょうか。苦難を通して神に至るのではなくて、神を通して苦難に至る。このキリストの出来事から、福祉の神学とか障害の神学というものは始まるべきではないのか、と思います。

三、苦難に立ち向かうビジョン
二つの説教から以上の事と関連して、最後に二人の説教を紹介したいと思います。
①田中遵聖牧師
 一人は田中遵聖という牧師であります。小説家の田中小実昌、直木賞作家で、『アメン父』や『ポロポロ』という小説を書いた作家ですが、その田中小実昌のお父さんは牧師でした。この田中遵聖牧師の説教集の中に、近藤定次先生について触れたものがあります。近藤先生は西南学院の神学部の先生で、非常に優秀で戦後間もなくアメリカ②留学されました。
 しかしアメリカで病気になり、肝臓癌ですけれども、福岡に帰ってきて九州大学病院で最後の日を過ごされたのです。
 近藤先生は30代はじめくらいでしょうか。その頃の田中牧師は先生の父親ほどの歳だったという事ですけれども、病院にお見舞いされた。
 田中牧師は、その時のことを説教の中で触れておられます。お見舞いして別れるときに、近藤先生がベッドの上から「先生、お帰りですか?」と聞かれる。「そうです」と言われた。
 また来るよという勇気もなく、「そうだ」というだけで私は終りました。
そして体をなでているそこは、私は悲痛な気持ちでした。年老いた人が我が子に先立たれる気持ちがこんなものではないかと思われました。
ところが別れるときにこの病人が、「先生、賛美があがりません」と悲痛な叫びをあげた。
 近藤先生は神学部のホープです。バルト研究で戦後間もなく本を書いた人です。その近藤先生が田中牧師に、「先生、讃美があがりません」。
 この病人と私は宗教によって結ばれた師と弟子の関係ですが、その最後が「讃美があがりません」の叫びは、なんと悲痛なものでしょうか。
 その後に続いて田中先生は、こういうふうに言われます。
 私はすぐ、「讃美はイエスさまがなさるのだ」と申した。彼はハッとした面持ちでした。痛ければ痛い、それだけ。アーメン、ありがとうございますと、それしかないのだ。それが讃美だ、それが人間の方の讃美だ、と私は申し上げたが、しばらくたって別れるときになって彼は、半身起き上がり、「ハハハハ」と大笑いしたのです。
 喜びに満ちて、「先生、嬉しいです」と言って笑顔を見せて、あふるる涙と共に私と別れたのです。最後の時です。
 そういうふうに結ばれております。讃美があがらないならあがらないで、アーメン。分からないなら分からない、痛ければ痛いでアーメン。それが讃美だ。
 私は神学的なコメントを付ける資格も能力もないのですけども、田中先生はここで、キリストの先行する恵みの中で、痛いは痛いといわせられて行くことが喜びだ。そういうことを言っておられるのかなと思ったのであります。
「苦しむ神」は、私達にこういう喜びを与えてくださる、と思わされた説教の一つであります。
②椎名麟三とコールブリュッゲ
 もう一つ紹介したいと思います。これは椎名麟三の小説です。椎名麟三はご承知の通り、戦前は労働運動をして、マルクス主義者というので逮捕されて、獄中から出てきてクリスチャンになった作家です。
 クリスチャンになって間もなく書いた一つが『骸骨』という小説です。小説のストーリーは、啓作という青年が仕事もうまくいかない、恋愛もうまくいかない。そこで自殺しようと思い、伊豆大島の三原山にやってくるというものです。
 火山の火口に投身自殺をしようと思ってやってくるのですが、その山に登るのが一苦労なのです。こんなふうに書いてあります。
 坂は、急どころか、所によっては垂直になっているのではないかとさえ思われるほどだった。滝のように汗が流れた。眼が、今にもくらみそうだった。彼は、このままへたへたとそこへ座り込んでしまいそうだった。
 一生懸命に努力し、汗をかいて、何しに行くのか、自殺をしに行くわけですけども。そしてようやく山頂に登りつきます。火口の所に茶屋がある。そこで彼は、不思議な体験をするのですが、その所を椎名麟三の言葉で読んでみます。
 空は、火山灰に蔽われ,夕暗のようにうす暗かった。すぐ向こうに見える高い火口からは、絶えず雷鳴のような爆発音とともに、空高く火を噴き出し、彼の足もとの地面を震わせていた。広い砂漠は、冷えかたまった溶岩の海だった。それは、荒々しく泡立ったまま、いろいろの形に凝固し、茶屋の近くまで押し寄せていた。
 意外な風景に呆然と立ち尽くした彼は、荒涼という形容がこれほど適切な場所はないだろうという気がした。同時に、死の世界を眼の当たりに見ているような緊張も感じていた。そして二羽の烏がこの上の空に舞っているのを見た時,かえって眼の前の世界の荒涼さが、身に迫ってくるのを覚えた。
それは確実な、歴史と世界の一つの終末であった。
 汗をかきかき、自殺する為に山に登ってきて、この火口のところにたどり着いた彼は、何か
不思議な仕方で、コツンと、生きて居る事の実感をどこかでさせられるのです。そのことを椎名麟三葉こういうふうに書きます。
 そして、この時間と大地の終末に運命づけられながら、生きていなければならないということは、骸骨の芝居のような、何か気狂いめいた滑稽のような気がした。
 同時に、もし神という者がいて、人間をこのようにしか生かさないのであるとしたら、あまりに戯談がひどすぎ、あまりにも戯談が真剣すぎるような気もした。しかもそれが神の愛であるならば、、、。彼は、笑い出した。
 というのであります。自分は結局,骸骨じゃないか。骸骨が生きているということじゃないか。いや、骸骨が生かされているということだ。そうすると、神がいるとしたら、何でおかしなことだと、そういうのでしょう。
 「よろしい。---きっと神様は、ユーモリストなんだろう」とからは力弱く考えた。というのであります。
 椎名麟三は洗礼をうけえ、おめでたいクリスチャンになったというよりも、敢えて自分の生き様の問題性に気がついたのでしょう。そして、人間というのはしょせん骸骨だ。しかしこの骸骨にすぎない者が生かされている。それを敢えて、おかしさとして、彼は見る事ができたのではないでしょうか。
 この椎名麟三の小説ですけれども、実はこれにはネタがあるという事を、私の大学の椎名麟三研究で有名は齊藤末弘先生が教え得くださいました。
 それはカール・バルトの本にあるというのです。何かというと、神学者のカール・バルトが『19世紀のプロテスタント神学」という本を書きましたけれども、その本の中にあるオランダの牧師コールブリュッゲを扱った箇所なのです。
 このコールブリュッゲを椎名麟三は援用したというのです。
 実は私は新名麟三を読むよりも前にこのバルトの本を読んでいましたので、「あ、そうですか」と了解しました。椎名麟三はバルトについて若い時の赤岩栄に聞いており、赤岩栄と一緒に勉強したのです。
 それはともかく、椎名麟三が小説の下敷きにした、バルトの本に出てくるコールブリュッゲの説教とは、復活の説教であります。それはこういう説教です。
 もしも私が死んだら、私はもはや死なないのだが、そして誰がが私の骸骨を見つけたなら、この骸骨はその人に向かってこう説教するだろう。私には目がない。しかし私はあのお方を見る。私はは脳も理性もない。しかし私はあのお方がわかる。私には唇がない。しかし私はあのお方に接吻する。私には従ない。しかし私はあのお方の名を呼ぶすべての人達と共に、あのお方を讃美する。私は硬い骸骨である。しかし私は、あのお方の愛に包まれて、全く柔らかくされ溶かされる。私は町の外に、墓地に横たわっている。しかし私は、パラダイスのただ中にいるのだ。全ての苦しみは過ぎ去った。あのお方の大いなる愛がそうしてくださった。あのお方は私達のために十字架を担い、ゴルゴダへと行かれたのだから。
 これがその復活の説教であります。正に死には死が告げられ、永遠の命が約束される。そこのところから十字架の出来事が「然り!」とされ、十字架の死と苦難に意味が与えられる。それが私達の苦難に向かうビジョンじゃないのか。私達は苦難に向かう時に、たぶん腰がけるでしょう。
 雄々しく向かうかどうか、それは問題ではない。雄々しく向かうどころかいつも弱々しく、打ちのめされるしかないかもしれない。しかしその根源にキリストの十字架と復活の様なメッセージを聞かされるのであります。
 大変つたない話でしたけれども、以上で終わりといたします。ご清聴ありがとうございまし
た。(拍手)
                     (日本キリスト教社会福祉学会・特別講演、2007年6月)
                              (2004年12月”西南の風”  寺園喜基)



待つ喜び

 「待つ」という言葉で、どういう印象をもたれるでしょうか。「いらいらして待つ」という感じで しょうか。それとも「のんびり待とう」でしょうか。
 大げさかもしれませんが、現代人は待つことが苦手になっているのではないか、と思います。「我 慢して待つ」よりも「さっさと、早く結果を」、という方を取るのではないでしょうか。「待つ身は長 い」とも言います。英語でもA watched pot never boilsといいます。ファーストフードが流行って いますし、食材でも旬の出盛りのものよりも、時期的に一足早いものが喜ばれます。あるものを買うにし ても、お金を貯めてから買うというよりも、欲しいものを手に入れてからローンで支払います。何だか 社会のシステムからして、待てない社会になってしまいました。
 しかし、待つことが楽しい、という場合だってあります。シチューやポトフを煮込む間や、紅玉 をたっぷり使ってリンゴケーキを焼く間など、出来上がりを待つ時間が幸福に感じられませんか。山 登りや旅行に出かける前の日、冬や夏の休暇を待つ日々、入社式や入学式等を待つ間、何だか浮き浮 きします。「待つうちが花」という皮肉めいた言葉もありますが、「待てば海路の日和有り」という言 葉もあります。英語では Everything comes to him who waits と言うそうです。
 さて、クリスマス前の約4週間はアドベント(待降節)です。クリスマスに特有な事は、クリス マスを待つ期間つまりアドベントがあること、これもまたクリスマス之喜びに属する、ということで す。アドベントの間に、私たちは待つ喜びを学ぶのです。降誕を待つ日々はまだ降誕の時ではありま 線が、既に喜びの中で待っているのです。

   アドベント、アドベント、小さな火がともる
   はじめは一本、次に二本、次に三本、次に四本
   そうしたら、子供のキリストがドアの前でたっているよ

 この詩はドイツの子供たちが幼稚園や小学校で暗唱する最初の詩だそうです。わが家の子供たち も、以前客員教授として滞独していた時、習って帰ってきました。
 このようにアドベントの間に待つ喜びを学ぶことによって、さらに待つことの積極性をも学びたい と思います。待つことは備える事です。準備の働きをすることです。ブルームハルトという19世 紀ドイツの牧師が、「急ぎつつ待つ」と言う事を語りました。彼は終末の神の国を喜んで待つという 姿勢を神の国運動として展開し、これを急ぎつつ待つと言ったのでした。アドベントと同根の言葉 にアドベンチャー(冒険)という言葉もある事を想いつつ、待つことの意味を思いめぐらしたいもの です。(2004年12月)



ワイマールの秋 

「待つ」という言葉で、どういう印象をもたれるでしょうか。「いらいらして待つ」という感じで しょうか。それとも「のんびり待とう」でしょうか。
 大げさかもしれませんが、現代人は待つことが苦手になっているのではないか、と思います。「我 慢して待つ」よりも「さっさと、早く結果を」、という方を取るのではないでしょうか。「待つ身は長 い」とも言います。英語でもA watched pot never boilsといいます。ファーストフードが流行って いますし、食材でも旬の出盛りのものよりも、時期的に一足早いものが喜ばれます。あるものを買うにし ても、お金を貯めてから買うというよりも、欲しいものを手に入れてからローンで支払います。何だか 社会のシステムからして、待てない社会になってしまいました。
 しかし、待つことが楽しい、という場合だってあります。シチューやポトフを煮込む間や、紅玉 をたっぷり使ってリンゴケーキを焼く間など、出来上がりを待つ時間が幸福に感じられませんか。山 登りや旅行に出かける前の日、冬や夏の休暇を待つ日々、入社式や入学式等を待つ間、何だか浮き浮 きします。「待つうちが花」という皮肉めいた言葉もありますが、「待てば海路の日和有り」という言 葉もあります。英語では Everything comes to him who waits と言うそうです。
 さて、クリスマス前の約4週間はアドベント(待降節)です。クリスマスに特有な事は、クリス マスを待つ期間つまりアドベントがあること、これもまたクリスマス之喜びに属する、ということで す。アドベントの間に、私たちは待つ喜びを学ぶのです。降誕を待つ日々はまだ降誕の時ではありま 線が、既に喜びの中で待っているのです。

   アドベント、アドベント、小さな火がともる
   はじめは一本、次に二本、次に三本、次に四本
   そうしたら、子供のキリストがドアの前でたっているよ

 この詩はドイツの子供たちが幼稚園や小学校で暗唱する最初の詩だそうです。わが家の子供たち も、以前客員教授として滞独していた時、習って帰ってきました。
 このようにアドベントの間に待つ喜びを学ぶことによって、さらに待つことの積極性をも学びたい と思います。待つことは備える事です。準備の働きをすることです。ブルームハルトという19世 紀ドイツの牧師が、「急ぎつつ待つ」と言う事を語りました。彼は終末の神の国を喜んで待つという 姿勢を神の国運動として展開し、これを急ぎつつ待つと言ったのでした。アドベントと同根の言葉 にアドベンチャー(冒険)という言葉もある事を想いつつ、待つことの意味を思いめぐらしたいもの です。(2004年12月)




学徒出陣追悼式記念式 式辞   2013年6月1日  

 本日は西南学院学徒出陣戦没者追悼記念式を行い、亡くなられた方々を謹んで追悼し、 平和への願いを新たにしたいと思います。

 本学院は戦没者追悼記念式を1939年から43年までに4回、催しました。しかし戦後、催されたことはありません。
わたくしは院長在任中、2006年に、西南学院が創立90周年を迎えた時、学院史を振り返りましたが、 戦時中、学生たちを「皇風宣揚に勇戦奮闘せられよ」(西南学院新聞、62号、昭和18年11月25日)と言って戦場に送りだした 当時の院長や学院指導者たちが、戦後、今日に至るまで、これについて沈黙していることに気づきました。 そして、歴史に誠実に向き合わねばならないことを自覚し、また呼びかけもしました。
 また、『西南学院大学ラグビー部史―80年のあゆみ』の編纂を担われた坂本譲氏は、編纂過程において部員の中に 戦死された方が多いことに改めて気付かれ、さらに、ラグビー部のみでなく、西南学院の学生、卒業生で学徒出陣により 戦死された方々について調査を行われました。坂本氏は2010年に来られて、調査の中間報告をされると共に、 学院として追悼式を行ってもらいたい旨の申し出をなさったのです。
 わたしはこれを真摯に受け止め、学院内での手続きを経て、学徒出陣70年にあたる今年、西南学院学徒出陣戦没者追悼記念式を 行うことが決定され、本日ここに記念式を行う運びに至ったのであります。
 1937年7月に始まった日中戦争は、マレー半島奇襲上陸、ハワイ真珠湾攻撃によりアジア・太平洋戦争へと拡大をしましたが、 ミッドウェー海戦を機に制空権を失って以来、日本軍は各地で敗北を重ねていきました。 1943年にはカダルカナル島撤退、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、アッツ島守備隊全滅という戦況の中で、この年の10月に 「在学徴集延期臨時特例」が公布されました。これにより、大学・高等学校および専門学校に在学中の文系の学生・生徒の 徴兵猶予が停止され、学徒出陣が行われたのでした。今からちょうど70年前のことです。
 本学院でもこの年の秋に仮卒業式、入営学徒壮行式がもたれました。仮卒業式における卒業生代表の学生は答辞において、 その決意をこう表明しています、
「私共は、必勝の信念に燃え立って、神国日本の天壌無窮と大東亜戦争の必勝とを確信し、私共のあとには、二年・一年の諸君が、また、その次の者が、強き西南魂を以て永遠につづくものと信じ、心残りなく第一線に 勇躍するものであります。」
と、述べているのであります(七〇年史、上、678頁)。
 本学院は何と言って学生を戦地に送りだしたのでしょうか。
学院を代表して、当時の院長は「壮行の辞」として、「諸君は、皇軍の幹部として、中堅として、指導的立場に立ち、一隊を指揮命令すべき身分となられるのであります。 充分に自重せられ、衆の模範となられる様に、心掛けて貰ひたい。・・・今後、私は、ただ、諸君の健康と、諸君が武運長久にして、 君国のために挺身奉公される様に、朝に晩に祈り続けるものであります。」(前掲、西南学院新聞)と、述べているのであります。
 そして、周知の通り、この戦争は1945年8月15日、日本降伏によって終りを告げました。
 学業半ばにして戦場に赴き、死を迎えざるを得なかった学徒兵たちの気持ちは、どういうものだったでしょうか。 本学院で十分に勉強して、卒業後は社会の各分野へと羽ばたく、という夢を持っていたでしょう。 この夢が奪われ、文具を武具に持ち替え、戦地に行かねばならなかったのです。若い命が戦争において絶たれるということは、 無念なことです。それを思うと、心が痛みます。
 他方、この戦争においては、「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」 (1995年の村山談話より引用)。そして、学徒兵が赴いたのもまさにこの戦争でありました。
 日本政府は1995年に「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)を発表しました。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、 多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、 疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを 表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」。
このように日本政府は「深い反省」と「平和の理念と民主主義」への決意を表明し、今日に至っております。
 また、ドイツはヴァイツゼッカー大統領が敗戦40年の1985年に、戦争に対する国の罪責告白を国会において内外に発表しました。 これは敗戦直後にプロテスタント教会が行ったステュットガルト宣言からの流れを受け継ぐものであります。
 わたしは昨年、院長退任後九カ月ほどドイツ・ケルン近郊のヴッパータール市に滞在しました。ナチスの時代、 最初にここから鉄道で政治犯、ユダヤ人等がアウシュヴィッツへ強制移送されました。それに対するドイツ国鉄の罪責告白の碑が 駅のプラットフォームに立てられています。人の背丈より一寸高い記念碑には、「ヴッパータール・シュタインベック駅から 1941年から1942年に亘って1000人以上のユダヤ人同胞が強制連行され、確実に死に渡された。生ける者には警告のために、 死せる者には記憶のために」という言葉が書かれています。また、驚くべき事にこの市の中央警察署の玄関にも、記念碑が立てられ、 そこにはこう書かれています。「我々は忘れない。・・・秘密国家警察はここで、政治的、宗教的、人種的、世界観的な理由によって 迫害された人々を逮捕し、尋問し、拷問した。犠牲者は社会民主主義者、共産主義者、教会関係者、他宗教信徒、ユダヤ人、 シンティ・ロマ、同性愛者、外国人強制労働者たちである。この多くはここから直接、強制収容所へ送られた。・・・ (以下省略)1991年9月1日、ヴッパータール警察署長」、こう書かれているのであります。
 本学院も学院としての戦争責任また戦後責任を表明することが必要であると思います。今年は学徒出陣70年に当たります。 聖書に、「七の七十倍まで赦しなさい」(マタイ18:22)というイエスの言葉がありますが、これを本学院に当てはめるなら、 「七の七十倍まで赦しを願いなさい」と言うことにならないでしょうか。本学院のことを振り返ってみますと、学院は戦前、 戦中に大変残念なことに、創立者C.K.ドージャーの遺訓「西南よ、キリストに忠実なれ」を貫くことができませんでした。 学院として当時の政府の戦争政策を批判することができず、教え子たちを学院の名で戦場に送りだし、多くの若い命を失わせて しまいました。また、それによって、近隣アジアの人々に筆舌に尽くしがたい惨禍を与えてしまいました。ここに本学院の教育的、 道義的な責任があります。わたしたちは、「神よ、学院の罪をお許しください」と、祈らねばなりません。
さらにまた、学院の戦後責任もあります。それは、初めに申しましたように、学徒出陣に当たって「勇戦奮闘せられよ」 (前掲、西南学院新聞)と言って送りだした本学院は、戦後このことについて、現在まで沈黙してきました。 確かに学徒出陣は時の政府の決定であり、学院もこれに従わざるを得なかったことは事実です。しかし、少なくとも戦後、学院は、 学徒出陣戦没者に対して、アジアの隣人に対して、そして何よりも神に対して、「申し訳ないことをしました」、 「『殺してはならない』という神の戒めに背きました」ということを表明せねばなりません。さもないと、 あの「勇戦奮闘せられよ」は現在も続いている事になります。それ故、わたしたちは今日、学院の戦後責任をも覚えて神に赦しを 乞いたく思います。
 戦没者は如何なる思いで死んでいったのでしょうか。本大学英文科の河野博範教授の聖書研究会を通して福岡高校時代洗礼を受けて キリスト教徒となり、京都大学経済学部生の時、特攻隊員として戦死した林市蔵という人がいます。 (以下は『ある遺書 特攻隊員林市蔵』湯川達典、九州記録と芸術の1989年より)彼は特攻隊員としての死を目前にして、日記に、
「私達は死場所を与へられたるものである。新しく編成されたる分隊の下、私達は突込めばよい。」(122頁)
とその決意を 記しています。しかし同時に、
「だけど、私の母のことを考へるときは、私は泣けて仕方がない」(123頁)と、早く夫を亡くし、 福岡女学院で寮母として働きながら育ててくれた、母への思いを吐露しています。出撃前日と付した手紙にはこうあります。 「お母さん、でも私の様なものが特攻隊員となれたことを喜んで下さいね。死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる 私達ですからね。でも、お母さん、やはり悲しいですね。悲しいときは泣いて下さい。私もかなしいから一緒になきませう。 そして思ふ存分ないたらよろこびませう。私は讃美歌をうたひながら敵艦につっこみます。」(144頁) このように母親に語りかけるのであります。そして、戦後に生き残る者たちに向かって、日記にこう記しています。「残る世の人々が、 きたなかろうとも、・・・私は国の美しさを知っている。世人の幸福といふ漠たるものは私の胸を打たないけれども、 祖国の栄へるといふことは、危急のときにあたって私の必死の願ひである。」(124頁以下)。このようにして、 彼は母親との天国での再会と祖国の栄えることを望んで、死んでいったのであります。
 特攻隊員・林市蔵の死、西南学院から学業半ばにして出陣し没した学徒兵たちの死、また、アジア・太平洋戦争における 戦没者や犠牲者の人たちの死、これは本来あってはならない死であります。わたしたちはこのような死を許すべきではありませんし、 また二度と起こすべきではありません。日本が憲法第九条をもっているのは、このような反省と決意があるからであります。 平和憲法を守る努力、換言すれば「剣を打ちなおして鋤とし、槍を打ちなおして鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、 もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2:4)という努力、これこそが亡き人たちへの誠実な答えであります。
 聖書は
「平和を願って、これを追い求めよ」(Ⅰペトロ3:11)
と語ります。また、
「平和を実現する人々は、幸いである」 (マタイ5:9)
とも語ります。学院に集う者たちも、また今は社会にある卒業生たちも、熱心に平和を願い、追い求め、 実現する者になって行きたいと思います。
 本学院中学校の卒業生である中村哲医師は、アフガンの地で、医療活動と水利工事活動を通して平和実現のために働いておられ、 現地から、「平和とは言葉ではない」と報告されます。(西日本新聞、2013年5月27日、1頁と3頁)
 わたしたちは、それぞれ置かれている場所で、それぞれの仕方で、平和を実現する者であり、それを通して、キリストに忠実であり、 この世界にインパクトを与える者でありたい、と願います。
 本日の追悼記念式において共々に、以上のことを心に刻みたいと思います。





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