日本バプテスト 福岡城西キリスト教会

福岡市城南区別府5丁目10−28(中村学園大学の裏手になります)
教会のご案内 信仰の告白等 牧師室 アクセス・交通

教会員の声

城西教会に来られている方に、日常生活の中で感じておられることや、ご自身の信仰についての思いを寄稿していただいています。
2013年6月

教会員の証  【十分の一を献げる】    2015.02.01  

城西教会にて  張恩榮

今から15年前、東京の福生教会で信仰生活を送っていた時のことです。
教会近くの横田米軍基地で勤務していたアメリカ軍人の信徒一人が、自分は収入の十分の一を神様にさしあげるだけではなく、時間の十分の一もさしあげていると証していたことがあります。
彼は一週間の時間を計算して、その十分の一時間を神様のために使っていると言いました。 その十分の一時間は外に出て伝道するか奉仕をするとのことでした。
また、もしその週に神様に時間の十一献金をさしあげることができなかった場合には、その残った時間を自分の人件費として計算して献金すると証しました。
あまりも律法的ではないかとも言えますが、神様を喜ばせようとするその熱い信仰心には頭がさがりました。 アメリカ人は信仰生活もこんなに定規で測ったように正確にしようとする人々が多いように感じました。
もともと、十一献金は神様のものを神様にお返しするという精神から出発しましたが、もしも間違って神様に罪を犯さないように安全な道を選択しようとするアメリカ人らしい心理かなとも考えました。
今回、十一献金を考えながらふっとこんなことを思いつきました。 私たちがお金の十一献金、時間の十一献金まで思ったら言葉の十一献金はどうかな、とのことです。
私たちが一日語る言葉の十分の一を神様のために使ったら神様にどんなに喜ばれるかを思いました。
私たちが語る十節の中に一節でも神様の福音を伝えるために使い、また、その十分の一節の言葉によって兄弟姉妹共に励まし合う、慰め合ったりすることができたらと思いました。
それから、考えることの十一献金はいかがでしょうか? 勝手に頭の中に浮び上がる無益な空想をやめて、代わりに神様のみ言葉を黙想して、私たちの人生で行われた神様のみ業を何度も繰り返して考えてみることも良さそうです。
よって、私たちの頭を整理整頓して身の回りを整えることができたら、より素晴らしい喜びに満たされたクリスチャン生活を送ることができると思います。
つまり、私たちが神様のみ言葉とみ業をしっかり考えることによって、生活の中で罪を犯すことをたくさん避けることができると信じます。
私たちは、存在自体が神様のものです。神様に十の一を差し上げながら、私たちは ‘自分の物’を差し上げたとように考えてはいけません。
自分の生活全般を振り返りながら、何でも神様にもっとさしあげる物がないかを考えてみることが、霊的に安全でまた元気な生活につながる道であると信じます。
最後に、証のまとめの代わりに、十一献金に対して一番よくある質問について考えてみました。
熱心にイエス様を信じて求めても、十一献金をしないと救われないんですか? との質問についてです。
十一献金自体は救いを決めるものではありません。救いはイエスキリストに対する正しい信仰告白で与えられることであって、行いによって与えられることではないからです。
したがって、たとえ、十一献金をささげなくても、イエスキリストに対する正しい信仰告白をした人なら誰でも救われます。
ただ、私たちの信仰生活に、喜びと力をあふれさせたいなら、また神様のみわざを見たいなら、私たちは十一献金として神様の恵みに答えるべきではないでしょうか。
以上です。ありがとうございます。