日本バプテスト 福岡城西キリスト教会

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教会員の声-信じる者の思い No.3

城西教会に来られている方に、日常生活の中で感じておられることや、ご自身の信仰についての思いを寄稿していただいています。 ご質問やご意見がありましたら、牧師までお知らせください。
2013年6月

※梅崎良則牧師は2018年3月末に引退されました。

どうして教会にいくことになったのか…そこで御言葉に出会う

城西教会牧師 梅崎良則
2013年7月24日、 西南学院大学チャペル 講話

実は「生きること」、「死ぬこと」・・それは私の生涯のテーマになっています。
もちろん大きなテーマですから、そのテーマの表面をさすっている程度のことかもしれません。
だとしてもわたしにとって向き合っていくテーマなのです。
どうしてそうなったのか、そのいきさつについて今からお話しさせてください。

 私は1971年、西南学院大学の「テニス学部」を卒業しました。テニス学部卒と自称するのは、学生時代テニスばかりをしていたからです。もちろん本籍は経済学部でしたが、・・・。
恥ずかしい話ですが、卒業論文は2冊の本をただつなぎ合わせただけでした。もし、西南学院の書類保管庫の鍵を持っているなら、今、すぐに取り出して燃やしてしまいたいような論文です。にも拘わらず、幸い、私は栗田工業という水処理大手の会社に就職することができたのです。

 わたしは上京して栗田工業という会社に入社しました。そして同じ会社の同期の女性と結婚しました。結婚は、わたしが26才、相手の女性が24才の時でした。
女、男と二人の子どもに恵まれ、仕事のやりがいもあり、恵まれた結婚生活でした。実際、1985年の年の暮れ、子供が寝静まり、除夜の鐘を聞きながら妻と、「本当に怖いくらい幸せだね」と語りあっていたことを今のように思い出します。
それは丁度、結婚12年目のことでした。その夏のお盆に、私たち家族は実家のある大川市に帰省していました。
丁度「マリコ」という柳田邦夫の書いたドラマをみていたら、「日航機が行方不明になった」というテロップが流れました。その年の夏が、妻が一緒に、私の実家に帰省した最後となり忘れられません。

・・・当時、私は千葉県市川市に住んでいて、社会人になっても相変わらず土日はほとんどテニスをしていました。
翌、1986年、春先、3月の終わり頃、テニスをしているわたしの元に、妻が息せき切ってかけつけてきました。
「即、精密検査だって」、そこで第2ガンセンターと言われた国立国府台病院(千葉県松戸市)で精密検査した結果、妻に肺がんが見つかりました。
それもかなり大きくなっていました。4月末に手術し、結局右の肺を全部、取りました。

しかし、その後、ガンは脳にも転移し、その一部を手術で取りました。
その手術で視神経の一部が傷つき左目か、右目か、記憶はありませんが、妻の視力は狭くなりました。
そればかりかガンは肝臓にも転移して、医者はそこでガンとの戦いに「白旗」を上げました。
・・・・当時の常識として妻には肺がんであることは伏せてありました。妻には、「肺化のう症」という嘘の病名が付けられておりました。
妻は悪いところを取ったら治ると信じていました。ところが目が見えなくなったばかりか、どんどん体が悪くなっていく状況に、いらだちと不信感を募らせました。
そして、あれほど私の見舞いを楽しみにしていてくれたのに、見舞いに行っても無表情ということが多くなりました。
・・・・このまま不信を持ったままで、別れることは、耐えれない、・・わたしはそう思いました。

しかし医師がgive upすると、患者の終末期医療についてのサポート体制もない時代、病院はそうした患者に何もすることができませんでした。
・・妻の母、つまりわたしにとっては義理の母ですが、義理の母には「ガン」、ということは伏せられていました。病気のことを共有していたのは、私と義理の父の二人でした。
ところが、その義理の父は、どういう訳か、2,3度見舞いに来て、それからは全く見舞いにもこなくなりました。
また、わたしの実家は九州なのでわたしの親、兄弟もチョクチョク、見舞いに来る、という訳にはいきませんでした。
・・・・ですから、妻への看護のすべてが、特に精神的な部分が、わたしの肩に乗っていました。
当時のわたしの心理を表すとしたら、“孤立無援”、という言葉がぴったり当てはまりました。“誰も助けてくれない”、”自分は一人ぼっちだ“、と深い孤立感、そういう状況の中にありました。
そればかりか、「妻の命を負うのは私しかいない」、というプレッシャー、その重圧に潰れそうになり、毎夜中、目が覚めました。
背中にはびっしょり脂汗をかき、朝まで鬱、鬱して眠れませんでした。ある時は今、「この電車に飛び込めば、どんなに楽になるだろ」、とそのように思ったことさえありました。

しかし、・・・そんな状況の中で、「溺れる者、藁をも掴む」という諺があるように、たまたま見つけた教会の看板を頼りに、わたしは教会に行きました。
それまでは宗教などは、「女、子供など、弱い者の行くところで、男の行くところではない。ましてや九州男児たるものが、行くところではない」、と思って馬鹿にしていました。
事実、わたしはキリスト教を建学の精神とする西南学院の卒業生ではありますが、在学中は学校のキリスト教の行事にも、ましてや教会などに行ったことは一度もありませんでした。
ところが今度は、そのわたしが縋るように、毎日曜日にその教会の礼拝に出るようになりました。
私の行くところはそこしかありませんでした。
わたしは自分の弱さをつくづく知らされました。・・・その頃、わたしの行っていた教会は、実は千葉県の市川市にある市川大野伝道所といって、建設会社の2階を日曜日だけ借りて礼拝をしているような所でした。
そんな所でも、・・・・そこで讃美歌を歌い、牧師のメッセ-ジを聞くことだけが、・わたしの慰めになりました。・・その日が来るのが待ち遠しかったのです。

その中で今、どうして見つけたのか、記憶は全くありませんが、・・その時の私自身を本当に支え、慰め、・・そればかりか私自身の将来にまで影響を与えた聖書の言葉と出会ったのです。
・・・聖書には、旧約聖書というものがありますが、その中にヨブ記という箇所があります。
ヨブ記というのは、人生の不条理を扱った文学ですが、その中にこういう聖書の言葉があるんですね。

・・「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこへ帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)この「主は与え、主は奪う」、という言葉です。
・・・妻の命は、・・・・誰が何と言おうと、妻のものです。
しかし、その時、私は、医者に見放された妻の命を自分の背に負っていたように思います。そういう意味で妻の命は、わたしの命、わたしのもの、だったのです。
だから苦しかった。

・・ところが聖書は、「主は(命を)与え」、と言います。
「主は(命を)与え」、ということにおいて、私は、「そうか、命はそれを造った人、その人がいて、もともとはその人のものだったんだ。
わたしのものではなかったんだ。・・・・それ故、命を造った人が、わたしに妻の命を貸し与えていたんだ。
そういうことだったのだ、と気付かされたのです。
そして「主は奪う」、とは・・・「だから預けていた命を返しなさい」、とそういうことなんだ、とわたしはそう思ったのです。
・・・そのように理解した時、不思議なことに、すーッと体が楽になったような気がいたしました。

古来、命は、日本でも「授かりもの」と言ってきました。
同じように、わたしも、妻の死を通して、・・「命はわたしのものではない」、実は「命は神のものだ!」「命は神からの賜りものだ」、ということを深く確信させられたのです。
・・・・このことは極めて大事なことです。
実は子どもを亡くした人たちに、再び生きる希望を持っていただくためにグリーフワークをしていますが、「子どもはじぶんのもの!」、との思いが強い人は、いつまでも、「どうして自分の子どもが若くして亡くならねばならなかったのか」、と怒り、・・・「命を守ってあげれなかった」、として自分を責め続けています。
「命は神からの賜りものだ」「命は神さまから預けられているんだ」、という神の事実を、現代人はすっかり忘れてしまっているではないでしょうか。
・・・・大切な人を失い、私はそれから、「生きるとは」「死ぬとは」、という人間の普遍的なテーマについて考えさせられるようになりました。

そして妻は亡くなりました。
妻はかけがえのない大事な存在でした。
その私にとって、先に申し上げたように誤解されたままで、死んで行かれることは耐えがたいことでした。
そこで、あるカウンセラーに相談ました。
そして、私は思い切って妻に「別れ」を言う決断をしました。
私の人生で最も葛藤した場面でした。
「もう、別れなくてはならない。自分も辛かった」、とそう言いました。
・・・しばらくあって妻はこう言ってくれました。
「ありがとう」・・・12年間という短い夫婦生活ではありましたが、それを肯定してくれたのです。
「夫婦になってよかった」、ということを言ってくれたのです。
・・・・・妻のこの「ありがとう」のこの一言が、どれだけ私のそれから後の人生を支えてくれたでしょうか。