日本バプテスト 福岡城西キリスト教会

福岡市城南区別府5丁目10−28(中村学園大学の裏手になります)
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教会員の声

城西教会に来られている方に、日常生活の中で感じておられることや、ご自身の信仰についての思いを寄稿していただいています。
2013年6月

教会員のメッセージ  【立て,行こう】    2014.12.28  

のぞみ伝道所にて 飛永永子
  
説教題:【立て,行こう】
聖書箇所:マタイ福音書26章36節〜46節
今日お読みする聖書箇所はマタイ26章36節からです。
「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネというところに来て、「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、その時、悲しみ悶え始められた。そして、彼らに言われた。「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目をさましていなさい。」少し進んで行って、うつぶせになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この盃を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」それから弟子たちのところに戻ってごらんになると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなた方はこのように、わずかひと時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」さらに、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ。私が飲まない限りこの盃が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」ふたたび戻ってごらんになると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。ここで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなた方はまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切るものが来た。」
 
 災害の多かった2014年も間もなく終わろうとしています。党利党略と言われた総選挙も終わりました。マスコミが報道していたように、自民党の圧勝となりました。
 今までも大企業のための(安倍)政権でしたが、今後はアベノミクスが承認されたとして、ますますインフレ政策と大企業への利益誘導に力を入れることでしょう。貧しい人たち、私などは厳しい状態が来るのではないかと考えています。
 それぞれの教会が今まで、精一杯のやり方や工夫をしながらで伝道してきたと思います。はたしてそれらは今日どうなのでしょうか。
 私たちは、16世紀の織田信長の時代の日本のキリシタンの人々のように、「人間、神の前に平等だ」とか、「神はみなしごを大切になさる」とかの、メッセージを世に訴えているでしょうか。
 私たちの宣教は力があるでしょうか 私たちはこの時代、立ちあがって訴えているでしょうか
 そのような問題意識を持ちながら今日は、イエス様の十字架への道、とりわけ、ゲッセマネで必死になって祈られた主イエス、そのイエス様の祈りに対し、眠りこけてしまっているペテロ、ヤコブ、ヨハネ、等の弟子たちの姿、・・・・そこに私たちの姿を見るような思いがします。
 ・・・イエス様は、その弟子たちに、「立て、行こう、見よ」というこれからの歩みを指し示されました。ここから私たちがクリスチャンとして生きる、生き方を考える指針となれば、と思います。
【聖書から・・・3つの学びが示唆される】
 今日お読みする聖書箇所はマタイ26章36節からです。 
 ゲッセマネというのは、油を搾る場所を意味する言葉で、オリーブ山の西のふもとにあり、この付近ではオリーブが栽培されていたそうです。
 ルカ福音書の平行記事22章には39「いつものようにオリーブ山に行かれると」とか、40「いつもの場所に来ると」とあるのでイエス様はここをいつも祈りの場としておられたのでしょう。
 イエス様に対する最高法院・大祭司カイアファを中心とするイスラエルの支配層の殺意は定まり、その手に捕らえられることは、もう逃れられない状況だったと思われます。
 この危急にいかに対処すべきか、最後の心の備えをなすべき時がきたのです。そのため弟子たちも共に祈りの場に身をひそめたこと、特にペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴われてご自分と共に祈ることをお求めになりました。
 イエス様が高い山に登ってモーセとエリヤにまみえた時も、この三人が特に同行しており(17章1節)マルコによれば、会堂司の娘を蘇生させた時も、この三人だけが立ち合うことを赦されている。(マルコ5章37節)
 これらの伝承を見ると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人が弟子団の中でゆるぎなき地位を占めていた様子がうかがわれます。
 それだけに、急を告げるこの祈りの時にあたって、この三人が眠りこけていたという言うことは、特筆すべき重大事といえるでしょう。
 このときイエス様が「悲しみおののき始められた」「悲しみのあまりしにそうだ」という言葉は、いかに大きな重圧が押し迫り、その下でつぶれそうになったかという深刻さを、まざまざと描かれていると言う事ができましょう。
 イエスの誕生以来、一貫してねらい続けてきたサタンの攻撃が今やその絶頂に達しようとするに当たり、その対決の恐るべき重圧が、イエス様の全存在を飲み込もうとしていたのではないのか!
 この時に臨んで、イエスは信頼する弟子たちの祈りによる支援を切望されたのです。「私と一緒に目を覚ましていなさい」しかしこの期待は裏切られることになります。
 ユダヤ人は祈るとき、直立して目と心を神殿の至聖所に向けるのが普通とされていたそうですが、ここでイエス様がうつぶせになられたというマタイの記述、またマルコの「地に倒れ伏した」という記事は万策尽きた者の懇願する姿勢を示している。
 そして、その祈りは、目前に迫る受難の苦杯を避けることができるようにという祈りでした。
マタイ26章では「わが父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし私の望みではなく、あなたの御心の通りにしてください。」と祈られ、二度目は「わが父よ、わたしがこれを飲まぬ限り、この盃が過ぎ行くことは不可能だとすれば、あなたの御心をならせてください。」
 三度目も同じ言葉で祈られています。
 神はこの祈りにどうお答えになったのか。神は明確な応答をなさりませんでした。
 はじめの祈りから、弟子たちのところに来られたという事は、はかばかしい神さまの応答がなかったという事でありましょう。
 弟子たちは、眠りこけ、イエス様の苦しみを苦しみませんでした。その事は弟子たちには、この状況に対する理解は全くと言っていいほどありません。最後の晩餐の中でさえ、自分たちの中で誰が一番偉いだろうかの議論が起こったことを聖書は伝えています。
 また、イスカリオテのユダの裏切りからは、十字架にかかるような弱いイエス様に対する絶望,が垣間見えるようです。神の子イエスは、王として、ダビデのように、強力な、万軍の主であり、圧政者ローマを打ち破り、イスラエル王国を再建すると思っていたのに、裏切られたという怒りがあったのでしょう。
 このことからイエスさまは、弟子から見放されたという事ができるのではないでしょうか。ではないかと思います。
 見放された、というならイエス様は神からこそ見放されたということが出来ましょう。
 なぜなら、聖書はこの後、イエスさまがゴルゴダの丘で十字架刑に架かられたと記しています。
 そしてそこで、イエス様は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。)」という言葉を発してこの世の生涯を閉じられたのです。
 迫りくる苦難の中で、弟子たちに見放され、・・・・そういう状況の中でさえ、「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう、見よ。」と言われたのです。
 これは、神のみ心を受け止め、み心に従う決意を固めて、サタンに立ち向かわれた言葉です。
 このことから私たちは何を読み学ぶことができるでしょうか。今日はここから3つの事を学びたいと思います。
 一つは、イエス様は神からも人からも捨てられた中で、その中でも神の御心を真っ向から受け、苦難に対しまっすぐに立ち向かわれたこと
 二つ目は、私たちはこの世的な失敗を恐れないということ
 三つ目は、時の支配層は、自分たちにとって都合が悪い者は殺すということ。
【3つの学びの展開とまとめ】
 まず、一つめのことです。神の御心を、イエス様の御言葉を真っ向から受け、立ち向かっていきましょう。・・・  
 教会は、世にあり、世に仕え、神の国へと方向づける、神の御言葉を伝える働きをなすものです。 キリスト者とは、わが為に生きるのではなく、主に仕え、イエス・キリストに倣うものとして、『他者のために生きるもの』です。
 しかし、現実はどうでしょう。他者のためとは思いつつ、自分の事から離れられない自分がいます。 だが、私はこの現実、弱い現実から出発するしかないわけで、私たちは失敗と思えても、先が見えなくても挑戦し続けます。
 教会を造っていくとは、隣人に神の愛を伝えていくこと、伝道が基本です。伝道のため、自分は何ができるのか、それを書き出してみます。
 私も第一歩から始めてみるわけであります。私はおしゃべりの方だと思うですが、肝心なことは遠慮してしまうところがあります。自分の知人全員に「クリスマスには城西教会に来てください」と言えてはいません。もう一歩前進したいと思うのです。
 私は今年は次のようにしようと思うのです。自分の活動の区切りを「クリスマス礼拝」において、クリスマス礼拝に、自分の知人に5枚のチラシをお渡しできる関係が作れるように、4月から、計画を立てて、実行したいと思うのです。
 私は「できないという自分の枠」を作っているようです。その枠から出るのは私にとって大変です。しかしこのイエス様の勇気を見ますと、私も自分を変えなければならないと思います。
 そういう意味では、私たちは罪に死に、神によって絶えず、新しくされ、生まれるのです。それを信じて、新たな自分を作り出していくことをやっていきたいと願っています。
 絶えず、イエスキリストに従うものとして、他者のために生きることに挑戦しないと、「弱くて当然」として、イエス・キリストに従うものであることがないがしろになってしまうのではないでしょうか。
 自分にできることを少しでも進めて、あとはイエス様にお任せという事でしょう。
 若いとき私が通った教会の中村牧師は、学生時代にバプテスマを受けられた方でしたが、辛い思いでとして、自分の友達が卒業式の日に、「お前は俺に一度も教会にさそってくれなかったな」と言われたそうです。
 中村先生は友達に,まことに申し訳なく、そのことを肝に銘じて伝道にあたられたそうです。
私たちが教会に行くものであることは、私たちの周りの人はみんな知っているのです。だから、クリスマス礼拝などは、お誘いしないと失礼なのでしょうね。
 二つ目のことです。この世的な失敗を恐れないということです。
 ある意味、ペテロをはじめとする弟子たちは人生の失敗者だと言えましょう。なぜなら、イエス様が王となったら自分たちを取りたてて右大臣、左大臣にしてもらえるというこの世の栄華を期待していたからです。
 それがイエスさまの十字架で見事に裏切られました。彼等はイエスさまが喜ばれる弟子になっていたのか、いいえ、全く不十分であったことを聖書は記しています。
 しかし、イエス・キリストの教えはペテロをはじめ、パウロも含めて使徒たちの働きが基となって、全世界に告げられ、世界を創り、人々を殺しもしたが生かしてきました。
 現在の苦難の時代の中にあっても、歴史的に見れば、何かが生まれようとしている時代かもしれません。
 人間の知恵で、科学技術で人間が幸せになり、命が寿ぐという事はないようです。
 私たちの目には、宇宙科学も、コンピューターの世界も医学の世界も素晴らしく、人々に幸せと命を齎すように思えるのですが、現実は、人間にさらなる苦難を齎すものであるようです。
 例えば、昔は短命でしたが、今は長寿です。しかし昔の戦争は,何万人かの人が殺されましたが、先の第二次大戦では、7000万人もの人が殺されています。
 また東北の大震災も昔は何千人かの人が亡くなっていますが、十年も経てば、復興します。しかし現在の福島は、見通しがつきません。
 この世的な成功は、人間の目にはわかりやすいものですが、神の御心によって、事はなります。
 私たちはこの世的な、現実に現れることで、振り回され、評価するのではなく、神の御言葉を常に仰ぎ見て、そこから真実を見て、真実を重ねることが大切なのでしょう。
 三つ目の学びは、権力者は、昔も今も、自分に都合の悪いものは殺すということです。
 しかし、イエス様は復活され、私たちに復活の確信を持てと呼びかけられています。
 沖縄の人たちは、日本にある74%の米軍基地を応分に負担して欲しい、と訴えています。その現れは今回の衆議院選挙の結果でありましょう。反自民が勝利したのです。しかし、権力者はこの民意を、いわば封殺したのです。
 また、香港の学生たちが、「自由な選挙」を求めて、長期間香港政府、中国政府と渡り合ってきました。
 素晴らしいと思います。沖縄の基地問題や香港の自由な選挙を含めて、・・・・我々の戦いはほぼいつも負けます。
 これからも負けるでしょう。その中で、確実に私たちの力は蓄えられ、結果的に政治の民主化は進みます。そして、イエス様のように、時の支配者に、真っ向から立ち向かわねばならぬ時と、沖縄や、香港の問題の時のように、敗退するときもあるでしょう。
 権力の本質を賢く見ることが必要と思います。
 しかし、イエスさまの十字架は、復活により、死が死で終わりませんでした。復活によって死者を甦らせれられた神さまの力はいつの日にか、時が満ち、私たちの思いを必ずや実現してくださる、・・その時は必ず来るのです。
 ここ、西福岡のぞみ伝道所にもその神さまの力が必ずや、顕れる時が来ると思います。
 さぁ、「立て、行こう」!。

 お祈りします。